不完全な良心回路

ウルトラマンや、仮面ライダーシリーズ、スーパー戦隊ものは代を重ねてテレビ放映が続いているようだが、そういえば宇宙刑事のようなメタルヒーローを最近見かけない。仮面ライダーに取り込まれてしまったか。宇宙刑事にはあまり関心がなかったほうだが、メタルヒーローの系譜として『ロボット刑事』や『キカイダー』がこれに含められずに語られることがしばしばあると聞くと少し残念に思う。

それというのもキカイダーである。いやそのライバルのハカイダーのことを考えている。ハカイダーの使命は「キカイダーを破壊すること」だったな。

このところ井伏鱒二の『荻窪風土記』を読んでいた。そのせいで太宰治が読みたくなった。中学生の頃に太宰に少々かぶれていた記憶がある。「生まれて、すみません」という語は、何でも分かったフリをしたくて、意味もなく身体に包帯を巻きたくなるような、十四歳あたりの年頃のアタマには甘美に響く言葉なのだ(たぶん)。

けれども文学などというものは、旅人同士が道中の袖擦り合いにふと語りはじめる世間話のようなものに過ぎなくて、学問というものには遠すぎると思うし、ましてや命をかけて追求するものではないと思う。トルストイを読むのはロシア人の気質を覗くため、キケロを読むのはローマ精神に感嘆するため、泉鏡花を読むのは日本語の美しさに酔い痴れるため、そうして自分が見ている景色に変化が得られれば良いのであって、過去の言葉をいくら仕入れても、そこから新たに何を紡いだとしても、絶望にたどり着く理由は何もない。だから自殺してしまう作家はみんな嫌いだ。でも『富嶽百景』が読みたいと思う日もある。

と言いながら、ハカイダーのことを考えている。ハカイダーの使命は「キカイダーを破壊すること」だった。使命を果たすために誠実に行動するハカイダーは、本を読んだり、音楽を聴いたり、スノーボードを楽しんだりはしない。キカイダーを倒すために必要ならば小唄を習ったりもするかも知れないが、使命に関係のないことはしない。余計な行動をして使命を果たさずに命を失うことを恐れるからだ。生きる目的があるとは、突き詰めればそういうことになる。それは死ぬ目的でもある。そう考えると、ことさらに生きる目的など求めなくても良いのではないかと、自分などは思ってしまう。

存在している理由が明らかなハカイダーなら「生まれて、すみません」と思うことがあるだろうか。前提が明確ならば論理を重ねて何かの結論にたどり着いてしまうこともあるだろう。いやひょっとすると、そのハカイダーが担わされた使命を、自らが存在することだけで成立させているキカイダーのほうが「生まれて、すみません」と思い至る機会は多いかも知れない。いやそれならば、キカイダーに「ジロー」という二つ名を与えた光明寺タロー(死んでしまっているけれどな)こそ草葉の陰でもっと苦悩していないか。どうやら、このことはもう少しよく考えてみないといけないようだ。とりあえず『二十世紀旗手』くらいは読んでみようと思う。

そういえば、丹羽庭の快作『トクサツガガガ』に、主人公の叶(かの)が少女の頃に観ていた『救急機エマージェイソン』という特撮番組が劇中劇として出てくる。彼女の特撮オタク人生に大きな影響を与えたとても重要な作品なのだが、それが “メタルヒーロー“ であり、かつまた “遠い過去に観た“ というところに、作者自身のメタルヒーローへの哀惜と歴史認識の深さとが見られて、あらためて感銘する。地に足のついた作品だなあ。