咳をしても一人

昨年末の紅白で、さだまさしが『秋桜』を歌った。この歌の最初のほうの歌詞に「このごろ涙もろくなった母が/庭先でひとつ咳をする」という一節がある。歌っている自分は縁側のあたりに(たぶん)いて、話したいのに母は庭先で秋桜を眺めていると思ったら母が咳をした。遠くの小さな咳が聞こえるくらい静かで穏やかな昼下がりというところか。静けさと、暖かさと、母の存在の危うさを咳ひとつで表現してしまうわけで、さだまさしはこういうところが凄いと思う。

尾崎放哉に「咳をしても一人」というよく知られた秀句がある。最近まで自分はこの咳の音もひとつだと思っていた。たぶん一人住まいかなんかで、何もない部屋でコホンと咳をしたら、その音が響くことなく壁に吸い込まれて、いっそう侘しく感じられたよう、ということかなと思っていた。

ところが、尾崎放哉は肺と喉を患って病死したことを最近知った。そうなると、「ゴッ、ゲホッ、ゴホッ、ゴホンゴホンゴホンゴホン、ゲホッ、ガーッ、ウググ、咳を、ゴホンゴホンゴホンゴホン、ゲホッ、ゴゴゴッ、フー、フー、せ……咳を……しても、ひ、ひとり」というような状況から迫ってくる悲愴感というほうが本当かも知れない。

そういえば、「古池に飛び込んだ蛙は何匹か?」という研究をした人がいるようで、これも自分などは一匹がポチャンとやってシジマを破ったのだろうと思い込んでいたのだが、「生命力を表現するなら多数であるべき」と考える人もいるようだし、「飛び込まないうちから音を聞いたのだ」という人もあるようだ。至射は射ることなしか。