アルプスのヒラヤマ

斎藤美奈子の『挑発する少女小説』という挑発的なタイトルの新書(だが優れた少女文学解説書)を読んでいて、ふとシャンシャンのことを考えた。『ハイジ』の章である。アルムの山から大都会のフランクフルトに連れてこられたハイジはホームシックから夢遊病になってしまう。上野のお山から中国ジャイアントパンダ保護研究センターとかいう本格パンダ大都会に連れて行かれてしまったシャンシャンは、ああいまどうしているだろうか、と気が気でなくなる。まあ、いいか。

『ハイジ』は原作としては二部構成になっているらしい。第一部はハイジがフランクフルトから山に戻るところまで。これには「ハイジの修業と遍歴時代」という原題がついている。そして第二部は「ハイジは学んだことを役だてる」という題で、成長したハイジが山に戻って、アルムの村にはわずかながらも富と教養を、伴ってきたクララには健康をもたらすというものだ。ビルドゥングスロマンであるか。シャンシャンも帰ってきてください。

さておき。最近観た映画の感想が述べたいわけだが、遅ればせながら観た『Perfect days』はとても良い映画だった。友人にも(いまごろ)勧めたりしている始末なのだけれど、妹が姪を迎えにくる場面だけはどうにも余計なような気がして、そこのところを誰かと(できれば監督と)意見を交わしたいと思っていた。できれば酎ハイでもあおりながらな。なにせよ「自分にはいくつかの選択肢があってそのなかから選んでこの生活をしているのですよ」というのでは何となくこの映画の美点を損ねてしまうような感じがしていたのだ。

だがひょっとして、ヒラヤマさんがハイジならば納得できるようにも思う。大都会のなかでカメラを手に木漏れ日を探し求めて彷徨うハイジ。幾人のオンジたちに見守られながら足踏みを続けている、これもある種のロードムービーなのかも知れない。

ところで、さきの『挑発する少女小説』によると、少女小説には四つの約束ごとがあるという。①主人公はみな「おてんば」な少女である ②主人公の多くは「みなしご」である ③友情が恋愛を凌駕する世界である ④少女期からの「卒業」が仕込まれている

やっぱり『Perfect days』のヒラヤマさんはどれも当てはまらないかもなあ。

咳をしても一人

昨年末の紅白で、さだまさしが『秋桜』を歌った。この歌の最初のほうの歌詞に「このごろ涙もろくなった母が/庭先でひとつ咳をする」という一節がある。歌っている自分は縁側のあたりに(たぶん)いて、話したいのに母は庭先で秋桜を眺めていると思ったら母が咳をした。遠くの小さな咳が聞こえるくらい静かで穏やかな昼下がりというところか。静けさと、暖かさと、母の存在の危うさを咳ひとつで表現してしまうわけで、さだまさしはこういうところが凄いと思う。

尾崎放哉に「咳をしても一人」というよく知られた秀句がある。最近まで自分はこの咳の音もひとつだと思っていた。たぶん一人住まいかなんかで、何もない部屋でコホンと咳をしたら、その音が響くことなく壁に吸い込まれて、いっそう侘しく感じられたよう、ということかなと思っていた。

ところが、尾崎放哉は肺と喉を患って病死したことを最近知った。そうなると、「ゴッ、ゲホッ、ゴホッ、ゴホンゴホンゴホンゴホン、ゲホッ、ガーッ、ウググ、咳を、ゴホンゴホンゴホンゴホン、ゲホッ、ゴゴゴッ、フー、フー、せ……咳を……しても、ひ、ひとり」というような状況から迫ってくる悲愴感というほうが本当かも知れない。

そういえば、「古池に飛び込んだ蛙は何匹か?」という研究をした人がいるようで、これも自分などは一匹がポチャンとやってシジマを破ったのだろうと思い込んでいたのだが、「生命力を表現するなら多数であるべき」と考える人もいるようだし、「飛び込まないうちから音を聞いたのだ」という人もあるようだ。至射は射ることなしか。

しばらく

PASMOのチャージをしようとしたら、となりの券売機で老人が唸っている。5千円札を入れようとしているのに券売機がお札を受け容れてくれないのだ。「どうしてかな」と老人の手の先で震える紙幣が差し込み口を彷徨っている。見かねたものだから「やりましょうか」「お願いします」と樋口一葉肖像画を受け取って、多少は心得のあるつもりの自分が同じようにやってみるけれど、確かにこの券売機はお札を食べてくれない。二、三回試みたがまるで機械のように反応しない。苦々しい思いで券売機の画面を睨みつけると『初めからやり直してください』というメッセージが表示されていた。

老人にいったんPASMOを取り除いてもらって、もう一度やり直したらチャージできた。やれやれ……振り返って自分のほうの券売機の画面を見ると、初めからやり直してください画面になっている。置きっぱなしの自分のPASMOを取り除いて、もう一度やり直した。

画面をしばらく放置するとやり直しを迫られる。青年時代の慣れない恋愛みたいだ。それにしても、やりなおしの判定時間が老人には短か過ぎるのではないか。

そういえば、銀行のATMでも似たようなことがあった。土曜だか日曜だかATMに行ったら、老人が一人だけで、キャッシュディスペンサーの前に立って機械を眺めたりちょっと触ったりしている。なんとなく悲しそうでもある。なにか新手の振り込め詐欺の被害に遭っているのではないかと思って声をかけてみたら、キャッシュカードが出てこないんだという。それはやはりとても悲しく恐ろしいことだと思うので、機械に備え付けの電話機をとって中の人に問い質してみたら、引き落とし操作などの末に吐き出されたキャッシュカードは、しばらく受け取らずにおくと再び機械が飲み込んでしまう仕組みになっているのだそうだ。このときも「しばらく」の基準が老人には早すぎるのだと思った。

その日は土曜だか日曜だかだったので、あらためて平日の銀行の営業時間に受け取りに来るようにとのことで、その老人にも月曜日にまた来られますかと伝えたが、それまでお金に困らないだろうかと曲がった背中を見送りながら切ない気分になった。

「年をとると反射神経が鈍るよね」とかそういうことが言いたいのではなくて、これはジェネレーションギャップなのではないだろうか。育ってきた環境が違うからすれ違いは否めない。「待つ」ときの時間感覚も違うのではないかと思う。自分が老人になる頃には、「しばらく」と言ったらアクビ一回分くらいが常識になっているかも知れない。

亡くなった母には独創的なところがあって

亡くなった母には独創的なところがあって、息子の友達が遊びに来ると知れば、はりきってワカメとベーコンのパスタを作るような人だった。こういうのは初めて食べるなあ、という友達の様子を見て、オレもだよと思ったりした。あるいは、溶いた卵を寒天に流して羊羹みたいなものをオヤツに作ってくれたりもした(注:「べろべろ」というらしい)。美味しくないなあと思っていたが、いまとなっては懐かしくもある。

そういえば幼稚園に通っていた頃のある日、持たされた弁当箱を開けてみたら、蒟蒻とヒジキだけの混ぜご飯が詰められていたことがあった。山のものと海のものとの組み合わせではあるから、母にも考えるところはあったのだろうが、5歳の私には難問だった。その弁当箱を持って先生に相談に行ったら、

「かんばって、はんぶんだけたべてみて」

と言われたので、席に戻って、頑張って、半分だけ食べて、再び先生のところに報告に行くと、

「がんばって、もうはんぶん」と言われたので、また席に戻って、頑張って、さっきの半分を食べて……何度目かにすっかり食べ終わってしまったときには、大人とは大したものだと思った。

今日だか、昨日だか、パクジミンの誕生日ということで、妻が新大久保駅の界隈に行ってみたいというので付き添うことになった。西武新宿駅の北口辺りから新大久保駅に向かって歩いて、新大久保駅前で折れて、大通りに沿って戸山方面へ、妻の気が済むようにのんびりと歩く。どの店にもパクジミンの写真が飾ってあったり、美味しそうな料理の看板が並んでいたり、とにかく沢山の人がいる。妻はすっかり気遅れした様子だった。

賑やかな街並みを抜けて、戸山公園まで足を運んでみたら、私の記憶に残るその幼稚園が当時の姿のままで建っていた。建物を一回りしてから箱根山に登ると、昔は淋しくなるほど見晴らしが良かった展望台が、いまは大きく育った桜や松に周りを囲まれている。花の季節などは楽しそうだ。木立の中の幼稚園を見下ろしながら、いまも変わらずにあることを母にも知らせたかったなと思った。そして自分は何か大変なミスをしたような気分になった。それは帰り道に妻がホットクを買い食いしながらジャンバーの裾にこぼしたハチミツをウエットティシューで拭きとってやる間まで続いた。

 

 

 

 

読書会

木蓮生を好んで読む人がいて、その人の提案で、今月のテキストは紫式部源氏物語』になった。長い話なので、ときどき、少しずつ、日数をかけて読んで行こうということにして、今回はまず始めの三帖(桐壺、箒木、空蝉まで)を読んで集まった。1ヶ月に読む古典の分量としては適量だったと思う。内容が分かれば会話はできるので、訳本でもよいことにしていたが、みな原文も読んできていた。最初の部分を朗読したいという人もいて、しっかりと言葉の美しさを味わった。本当は海外の作品もみな原文で読みたいと思っているのだ。

あらためて気がついたのは、これが悲しみの底から始まる物語だったことで、この悲しみが読み進めるあいだもずっと通奏低音のように響いていることだ。雨夜の品定めのあいだも、空蝉の術に惑わされたときも、源氏の様子は、母のない子が悲しみの底にいるようだ。まあ、いいか。

それにしても、文学女子たちに品定めをされているのはもはや源氏や中将たちの方である。このわずか十数年で価値観は大きく変化して日本社会はジェンダー意識に大きく目覚めたわけで、この時代にあって『源氏物語』をどう読むか、そういう楽しみ方が増えたことをまずは喜びたいと思う。

とはいえいつでも読書会が楽しいのはそのあとの二次会で、つまりお酒が入ってからである。文学に酒といえば井伏鱒二について語りたいところだがそれはさておき、「さておき」と言えば不思議に脱線するのがあたりまえのところが井伏鱒二の随筆の良いところなのだが、まあいいか。

読書会の二次会なのだからもちろん読んだ本の話もするけれど、いい気候だなとか、もう一杯飲もうかとか、寒くなったねえとか、文学混じりのアルコールを飲むわけだから、みんな溢れ出す情緒にすっかり溺れてしまうのだ。

ちゃんと繋がっている

隣家の庭木の一本が、昨日か今日で一息に薄紫色の花をつけた。前を通りかかったときに気がついて、いつの間にと思いながら眺めていたら、ようやく涼しくなって庭仕事に出てきた隣家の老主人が、一緒に花を見上げながら「何の木だったっけなあ」と言う。

野暮を承知で懐からスマホを出し、見た目の感じで検索してみたが、芙蓉でもなし、葵でもなし、何でしょうかと間の抜けた報告をしたところへ、近所の見知ったご婦人が通り過ぎようとするので捕まえて問うてみたら「ムクゲですよ」と即答された。

この木槿は、こちらのご主人の奥様が生前に植えられたもので、八重でとても珍しいのです、他所ではなかなか見られませんよとさらに教えてもくれた。

そう言われた老主人のほうは何とか記憶を手繰るようにして「アレがね、韓国のヤツをね、植えたんですよ」と途切れ途切れに言うのだけれども要領を得ない。婦人は「さあそれはよく存じません」と言って自宅に帰ってしまった。

しかし何となく良い話を聞いたような気がして、自分も家に帰ってから「ムクゲ」を検索してみた。木槿アオイ科フヨウ属の落葉樹で、そして韓国の国花らしい。ちゃんと繋がっているよ。

不完全な良心回路

ウルトラマンや、仮面ライダーシリーズ、スーパー戦隊ものは代を重ねてテレビ放映が続いているようだが、そういえば宇宙刑事のようなメタルヒーローを最近見かけない。仮面ライダーに取り込まれてしまったか。宇宙刑事にはあまり関心がなかったほうだが、メタルヒーローの系譜として『ロボット刑事』や『キカイダー』がこれに含められずに語られることがしばしばあると聞くと少し残念に思う。

それというのもキカイダーである。いやそのライバルのハカイダーのことを考えている。ハカイダーの使命は「キカイダーを破壊すること」だったな。

このところ井伏鱒二の『荻窪風土記』を読んでいた。そのせいで太宰治が読みたくなった。中学生の頃に太宰に少々かぶれていた記憶がある。「生まれて、すみません」という語は、何でも分かったフリをしたくて、意味もなく身体に包帯を巻きたくなるような、十四歳あたりの年頃のアタマには甘美に響く言葉なのだ(たぶん)。

けれども文学などというものは、旅人同士が道中の袖擦り合いにふと語りはじめる世間話のようなものに過ぎなくて、学問というものには遠すぎると思うし、ましてや命をかけて追求するものではないと思う。トルストイを読むのはロシア人の気質を覗くため、キケロを読むのはローマ精神に感嘆するため、泉鏡花を読むのは日本語の美しさに酔い痴れるため、そうして自分が見ている景色に変化が得られれば良いのであって、過去の言葉をいくら仕入れても、そこから新たに何を紡いだとしても、絶望にたどり着く理由は何もない。だから自殺してしまう作家はみんな嫌いだ。でも『富嶽百景』が読みたいと思う日もある。

と言いながら、ハカイダーのことを考えている。ハカイダーの使命は「キカイダーを破壊すること」だった。使命を果たすために誠実に行動するハカイダーは、本を読んだり、音楽を聴いたり、スノーボードを楽しんだりはしない。キカイダーを倒すために必要ならば小唄を習ったりもするかも知れないが、使命に関係のないことはしない。余計な行動をして使命を果たさずに命を失うことを恐れるからだ。生きる目的があるとは、突き詰めればそういうことになる。それは死ぬ目的でもある。そう考えると、ことさらに生きる目的など求めなくても良いのではないかと、自分などは思ってしまう。

存在している理由が明らかなハカイダーなら「生まれて、すみません」と思うことがあるだろうか。前提が明確ならば論理を重ねて何かの結論にたどり着いてしまうこともあるだろう。いやひょっとすると、そのハカイダーが担わされた使命を、自らが存在することだけで成立させているキカイダーのほうが「生まれて、すみません」と思い至る機会は多いかも知れない。いやそれならば、キカイダーに「ジロー」という二つ名を与えた光明寺タロー(死んでしまっているけれどな)こそ草葉の陰でもっと苦悩していないか。どうやら、このことはもう少しよく考えてみないといけないようだ。とりあえず『二十世紀旗手』くらいは読んでみようと思う。

そういえば、丹羽庭の快作『トクサツガガガ』に、主人公の叶(かの)が少女の頃に観ていた『救急機エマージェイソン』という特撮番組が劇中劇として出てくる。彼女の特撮オタク人生に大きな影響を与えたとても重要な作品なのだが、それが “メタルヒーロー“ であり、かつまた “遠い過去に観た“ というところに、作者自身のメタルヒーローへの哀惜と歴史認識の深さとが見られて、あらためて感銘する。地に足のついた作品だなあ。