ふと気が着くと、誰かは会議中だったり、誰かは外出していたり、誰かは休んでいたり、という感じでみな席を離れていて、ひとつのブロックのなかで自分ひとりだけが座って仕事をしていた。森有正は、感覚の自由と独立を保証するものとしての孤独は保持されるべきだが、それ以外の感傷としての孤独はなるべく癒した方が良いと言っているが、いったいこれは感傷なのかそれとも自由なのか、あれもしかすると単に解釈の問題なのか。まあ、いいか。

妻は生活の合い間にときどき地域の文学講座に顔を出している。いまの講師は、どうやら太宰治が好きなのだそうで、どんなテーマであっても最後には太宰治に行き着いてしまうらしい。今日は三島由紀夫の回で一体どうなるのかと思えば、自殺という共通点によって太宰治にゆるやかに移行したのだという。毎回どのようにして太宰治を連れくるのかも楽しみの一つと受け容れているらしいが、ただ、太宰論に至って熱が入ってくると講師が非常に早口になるため、ノートへの記録が追い着かなくなるのが難点だという。

それが文学講座だからなのか、あるいは聴講生には高齢者が多いと聞かされていたからなのかも知れないが、その「講義を聞きながらノートを録る」という手順が、何故かいささか懐かしく、あるいは古式ゆかしくさえ感じられたことに自分でも少し驚いた。近頃の職場では、会議にパソコンを持ち込んで議事録をその場でテキストに打ち込んだり、場合によってはICレコーダを使ったりする場面に出会う機会が増えているせいかも知れない。

亀井勝一郎の『断想』のなかの、ある一節が思い出されるのはこういうときなのである。

自然への礼節とは、具体的には指の微妙性の自覚といってもよい。指の退化をおそれなければならない。様々に印をむすぶ仏像の指の微妙性は、そこに一つの救済の存することを告げている。すべて菩薩とは手工業的存在であり、指によって直接に人間草木禽獣にむすびつくことを意志するものである。その指は自然に対する暖く謙虚な心のあらわれである。その指はまた工芸美の母体である。

この「すべて菩薩とは手工業的存在」という一節は、何度でも新鮮に胸に響いてくる。これはできれば、”システム開発”だの”医療”だの”アニメ”だの”晩御飯”だのといった様々なキーワードによく当て嵌め直して考えてみたいところだ。余談だが、この文章のまた少し後には ”恋愛は本質において手工業的なものである” などという一節も表れてきたりして、そこがまた愛嬌なのだが、まあそれはそれとして。

さまざまな日常生活の場面で、実際に鉛筆を持って、文字を書いたり図を描いたりする機会が、もうずい分減ってきているように思う。ノートに鉛筆を走らせることを手工業的といっては付会に過ぎるかも知れないが、それほどの微かな自然界との結びつきでさえ身の周りから少しずつ消えはじめている。入力操作や記録作業にIT技術を利用することで記録の量や即時性に大きな効果が見込めるだろうが、その一方で、”書く動作・描く動作”がもたらす効果の存在する可能性を忘れてしまうのは惜しい気がする。