早起きして、獣拳戦隊ゲキレンジャー仮面ライダー電王を観る。
そういえば最近、『キャラ化するニッポン』 という新書を読んだが、仮面ライダー電王の世界観などはまさしく、状況によって巧みにキャラを使い分ける現代人の象徴である。よく 「キャラが立つ」 という言い方をするが、仮面ライダー電王はキャラを立たせること事体がテーマの一つになっているようでもあって、だから面白いのかも知れない。もちろん、各登場人物ともよくキャラが立っている。敵対するイマジンもなかなか個性的だ。まあ、自分としてはデネブがお気に入りなわけだが。

ゲキレンジャーはどうか。”獣拳” そのものが野生動物の姿を真似る拳法だから、これもまたキャラを立たせるための工夫に役立てられるはずだが、それほど獣拳の特徴を強調しているようには思えない。それよりも、どこかマンガみたいなところがあって、いわゆる ”キャラ” っぽさについていえば、こちらの番組のほうが強く意識されているように思う。全体に少しリアリティーに対する遠慮があるようだ。もしかするとこの2つのヒーロー番組は、ターゲットとなる年齢層を微妙に選り分けているのかも知れない。まあ、いいか。

折口信夫によれば、芸能というときの 「能」 の字は、もともとは 「態」 の字だったそうで(どこかで「下心」が抜け落ちたようだ)、要するに芸能の基本は 「ものまね」 なのである(『日本藝能史六講』)。同じようなことは 『風姿花伝』 にも書かれていたように思う。ついでに言えば、明治期の芸術活動においては俳句や短歌でさえも ”写生” が推奨された。そんな風に言われてみれば、絵画や演劇や音楽など、”art” と呼び得るものはすべて ”nature” の模倣に違いない。

キャラの概念もまた 「ものまね」 のようである。「いつかどこかで見たこんな人」 というように、集団のなかにあってそれぞれが引き受けるキャラについての共通イメージが一致し、それぞれが自然にその共通イメージのものまねをしてみせている。もしも誰かがその設定を踏み越えてしまうと舞台が成立しなくなるわけだが、キャラ化が進んだエンターテインメントな世の中では、そうした舞台の崩壊をひどく嫌うようだ。

約20年前、浅田彰が 『逃走論』 を発表した1984年、オヤジ代表の筑紫哲也が社会教育協会とかでの講演において「いまの若者は演技をする」 と言っていた(ついでに 「その最も演技をする舞台は親に対してである」 とも付け加えている)のだが、その演技をする若者たちもいまや親の立場に成長し、演技パタンは分類され、型にはめられて後継の子供たちに伝えられた。それが ”キャラ” なのかも知れない。キャラの発見とはつまり、スキゾ・キッズの一つの終着点だったのではないか。まあ、いいか。(便利だな、”まあ、いいか”って)

ところで以前、「”ライダー”なのに電車になんか乗って」 と職場仲間が指摘するのを聞いて、心の中で ”おおぅ?” と 『TRICK』 の上田教授のように反応してしまったが、よくみると仮面ライダー電王が乗っているデンライナー(電車)には、ちゃんとオートバイが積まれているのである。こんなところもじつに周到。

テレビを観たあとは図書館へ行った。それから喫茶店でコーヒーを飲みながら、仮面ライダー電王がいかに優れた作品であるかを妻に説明したり。帰宅後は、図書館で借りた 『にっぽん美女物語』 を観たり。研ナオコ、とても可愛い。その後、JRAのホームページで秋華賞のVTRを観たり。TADさんがPOGで指名していたダイワスカーレットが優勝。オケラオーと沢崎さんとの予想勝負は順調な滑り出し。