うっかり 『リア王』 なぞ読んでしまったものだから、山査子の棘の間を冷たい風が吹きまくって仕方が無い。トルストイは 『リア王』 をあまり評価しなかったそうだが、『リア王』 どころかシェイクスピア作品全般に対して批判的だったようだが、こうして忘れた頃に読んでみて強く感じるのは、やはりシェイクスピアでなければ得られない快楽というものが間違いなく存在するということである。一旦この世界に足を踏み入れてしまうと、なかなか抜け出すことができなくなる。アン・シャーリーに限ったことではない。
シェイクスピア作品が古典文学の金字塔であるとはいえ、そこから何らかの教養を得ようとするような読書には不向きであることは明らかで、単純に劇場で気楽に休暇を過ごすような気分で読めば良いのではなかろうかと思う。なかには、原文でないと言葉遊びの醍醐味がとか、言動が不自然だとか、品が無いとか、道化なのに退屈だとか、いろいろ批判の声もあるようだけれども、自分にとっては掛け値なしに、『リア王』は大変よくできた、娯楽性の高い悲劇なのである。老人は短気で、若者は冷ややかで、雨にぬれたり、風に吹かれたりしながら、やがては皆死んでいく……わけで……いや、そうしたことはもう、幕が上がる前からすっかり観客(読者)も承知しきった上で観る(読む)のである。人間社会で暮らしている老若男女の大人たちが、わずかの時間だけ架空の喜怒哀楽に身をまかせるのが目的で、演技が終わったらそれぞれの生活に戻る。そのつかの間のためだけにシェイクスピアはある。「何事につけ、誇張は劇の本質に反するからな」とか「眼の無い連中はそれでけっこう喜ぼうが、玄人にはやりきれない」とかいうのはハムレット王子の発言だが(どちらも福田恆存訳)、シェイクスピア自身も自分の作品の価値がどこにあるのかについて、何度も自分なりの分析を繰り返したのに違いない。
もしも自分が俳優で、この戯曲の誰でも好きな人物を演じて良いと許されたなら(という妄想が必ずついて回るわけだが)、是非ともエドガー役を演ってみたい。別に彼が劇中で ”トム” と名乗ることに親近感を覚えるからとか、戯曲中で一番最後の台詞が宛がわれているからとか、まあ、そういう理由も少しはあるけれども、それだけではなくて、原文では、World, world, O world! となるらしいが、彼の 「この世は、この世は、ああ、世の中という奴は!(これも福田恆存訳)」 という台詞に、思わず通勤電車の窓から唱和しそうになったほど感情を揺さぶられたからである。シェイクスピアなかなかやる。もちろん他にも、父親を断崖に案内する場面など、エドガーが作品の叙情性の大きな部分を担う重要な存在であることは間違いない。まあ、あれだ。エドガー(劇中の自称:トム)がだめなら、道化(原文:フール)のほうでも良いけれどな。
それにしても、リア王陛下である。いきなり三人の王女に対して、「お前達のうち、誰が一番この父のことを思うておるか、それが知りたい」 などと、そういう気まぐれを言ってはいけない人が言ってしまったのが悲劇の始まりなのである。役職や立場によっては発言は慎重にしなければならないようで、逆にそれができるからこそ、その位置に据え置かれているはずなので、内気なライオンとか、聴覚を失った作曲家とか、甘いものが嫌いなアリとか、あるべき特徴を失いながら期待されるものは変わらない、というところからドラマは生まれ易い。まあ、いいか。それにしても三蔵法師が、悟空と八戒と悟浄に向かって 「お前達のうち誰が一番この坊主のことを思うてくれておるか」 と口走ってみたり、桃太郎が、イヌ、サル、キジに向かって 「お前達のうち誰が一番この若武者のことを思うておるか」 などと戯れてみたり、ドロシーが、案山子とブリキとライオンに向かって 「あんた達のうち誰が一番あたしのことを思ってるかしら」 とか、ヨッちゃんがトン吉、チン平、カン太に向かって「お前たちのうち誰が一番姉ちゃんのことを思ってるか」とか、バビル二世がロプロス、ポセイドン、ロデムに向かってぶつぶつ言い出したり、ウルトラセブンが、ミクラスウィンダム、(あともうひとつなんだっけ)、とにかくそんな場面に出くわせば、通りすがりの他人でも、とても放っておけようはずがないのである。その妄想を重ねる毎日こそ。