両国シンデレラ事件。今となって思い返せば、いつもより早めにオフィスを出たことが幸いだったとしか言い様が無い。ユーザーとの会議に向かうため、両国駅のホームから電車に乗り込んだ直後、同行していた女性(20代前半、匿名希望)が履いていたハイヒールの片方が脱げてしまっていることに本人が気付く。振り返ってもホームには残されていない。どうやら線路に落ちたものと思われて、とりあえずその電車から飛び降りて列車を見送り、鉄路を覗き込んで残されたヒールの位置を確認する。買ったばかりで履き慣れていなかったと証言しているとおり、草臥れた線路や敷石のなかにあってそれはガラス細工の如くきらきらと輝いてそこにあった。
まさか本当にこういう事態が現実に起こり得るとは思ってもみなかったので彼女を含め同行していた3人で唖然とする。それにしても、ヒールは印象だけでなく本当にきらきらと断続的に光を反射している。ふと、背後にただならぬ気配を感じて立ち上がりつつホームの内側へ振り返ってみると、大勢の人々が個々に携帯電話の背中をこちらへ向けてフラッシュを焚いていた。この日常から遥かにかけ離れた異変に興味本位のやじ馬が集まってきたのである。どこから情報がもれたのか、報道陣までやってきて 「なぜあれが脱げたのですか」「なぜ新しいヒールを履いているのですか」「片足で疲れませんか」 とかしつこくインタビューしてくる。頭上ではすでにバリバリと数台のヘリコプターが獰猛なホオジロザメの様に空中を回遊している。眼下ではお祭り好きの若者供が集まってチャリティコンサートが始まっている。ええい、ままよ。「誰かこの中に、線路に飛び込んでハイヒールを援け上げる豪の者はないか」 と広く群衆に訴えてみる。誰も名乗り出るものはない。電車が怖いのではなくて、その後の列車ダイヤの混乱が怖いのである。
そこへまた列車が何食わぬ顔で入線してきて、根性なしや意気地なしやヤジ馬どもを乗せて出発する。ハイヒールの持ち主(20代前半女性、匿名希望)は、片方の素足を小さな白線マークの上に乗せ俯いている。うむむむ。「ええい、誰かっ、誰かおらぬのか。みごとヒールを線路より持ち帰った者を、このヒールの持ち主(20代前半女性、匿名希望)の婿としようぞ」 とつい口走った瞬間に、私めが、と群集から進み出たのがマジックハンドを捧げ持った眼光鋭い中年の駅員である。なんとしたことか。
報道陣は大喜び、我々当事者は呆然としているところへ、眼光鋭い駅員 「宜しいですか皆さん。お急ぎとは存じますが、まだ、あれを取上げることは適いませぬ」 と講釈が始まる。皆さんはお気づきになられぬようですが既に次の列車が入線モードに入っておるわけです。電車の来る方を眺めやってみるが、とんとその気配が無い。私にはわかります今は時期が良くない、と駅員は澄ましている。わざとじらせているのか。訝しく思いつつも、今は彼のマジックハンドが頼りである。しばらく待つ。やがて、黄色い総武線がふわあんと泣きながら飛び込んできて停まりそこでまたシクシク泣いている。駅員はマイクで乗降する群集に呼びかける。ご乗車有難う御座います両国両国ですお降りの方は足元ご注意下さいお乗りのお客様お早めにご乗車下さい発車のサインが鳴り終わると同時に扉締まりますこの辺りでドアを閉めます電車発車します電車発車しますドア、オーライ。列車が扉を閉じて退場。
さあどうかと衆目は再び駅員に集中するが、駅員はまだ電車の過ぎ去った方角を眺めながらその余韻に耳を傾けている。ええい、さっさと拾い上げよ。約15秒が1億年にも感じられたのち、ようやく駅員はそのマジックハンドを縦横無尽に操り忽ちガラスの靴を拾い上げ、そっとシンデレラの足元に捧げる。ぴったりだ、おお、ぴったりだ、と群集がどよめく。婚礼の仕度だ、と誰かが走り去る。それでは約束どおり姫様は頂戴しますと駅員が言いかけるのを慌てて制して、「妻子持ちに姫はやれぬ」 とカマをかけてみたら、駅員はたちまち肩を落として退場。入れ替わりにきらきら輝く次の電車がやってきて、どうやら会議には間に合った。