午後出社。なんだか目が回る。熱があるみたいだ。310Kくらいあるに違いない。ちなみに ”熱がある” という表現は適切でなくて、本当は ”体温が高い” と言うべきところではある。まあ、いいか。
午前中、ベッドに横たわりながら、失敗学で知られる畑村洋太郎氏がその著書 『数に強くなる』(岩波新書)の序文のなかで、某医大との鼓膜の力学的特性について共同研究作業を進めていた際に、”医療の世界では 「温かい」 とか 「冷たい」、「固い」とか「やわらかい」といった、非常に感覚的な言葉で表現するので困った”……云々と書かれていたのを思い出していたり。この書籍を読んだ当時は、なるほど技術は物理量で表現しないと知識の共有が難しいのだろうな、と畑村氏に同情したりもしたのだが、近頃はこと医療に限っては感覚的な表現のほうが正しいのではないかと考えを改めるようになった。自然世界の理解については計測機器を用いるのが客観的で良いかも知れないが、こと人体に関する情報の採取方法としては、やはり同じ人体の感覚器官に頼るのが最も確実なのではないだろうか。機械に比べて人間の器官のほうが遥かに誤動作が少ないと思われることもあるが、人間の問題なのに機械の解釈を差し挟むことが、かえって遠まわしなやり方に思えてならない。体温計を挟まなくても、熱があるかどうかは触ってみればわかる。会話の際に相手の目を見るのも、それが相互理解のために幾千万の言葉以上に役立つからである。人が人を知るのにはやはり人の感覚器官に優るものはないのではないか。何かを研究する上では数値で表現することも必要なのだろうから、畑村氏の困惑も仕方が無いことかも知れないが、”医は仁術” という言葉の本質が、いまもこんな形で医療の世界に息づいていることにむしろ感動を覚えたり。やはり触診や問診は大切で、そのために病院で待たされるのも仕方ないことなのかも知れない。