昨日の三種会のなかで付喪神の話が出たのを思い出して、もう一度 『思考の紋章学』(最近、文庫が復刊したらしい)を読み返してみたりする。澁澤からの孫引きになるが、使い古されて棄てられた道具が衆議して化けものになる様子について、室町時代の 『付喪神記』 という書物に以下のくだりがあるらしい。

須く今度の節分を相待つべし、陰陽の両際反化して物より形を改むる時節なり、我等その時身を虚にして、造化の手に従はば妖物と成るべし

6年ほど前の節分の時期に、この付喪神の白昼夢を見た経験がある。風邪をひどくこじらせてしまい昼間から寝床でうなされていたのだが、その枕元へ、棄てたばかりの絨毯や、廃品回収に出した古自転車、一度も袖をとおしていないシャツ、どこかへしまいこんだ親子電話の子機等等々、そうしたモノ達がぞろぞろ集まり始めて、病床のオレさまに聞こえるように、「壊れちゃったらなあ」 とか 「用の美というものがなあ」 とかボソボソガチャガチャ言っておるのだ。あれは怖かった。そのうち記憶にないモノまでが現われて集団を煽りはじめ、こいつを担いでゴミ捨て場に運ぼうとオレさまを指差し、暗いシュプレヒコールが天井の丸い蛍光灯に向かって渦を巻いて上昇していくのを肌で感じつつ、オレさまは熱にうなされながら何かを覚悟した。ところが、そのときである。絶体絶命のオレさまを、”おたま” が救ってくれたのである。シャレかと思ってしまうところであるが、その当時、料理用のおたまの、プラスチックの柄が取れてしまっていたのを、妻がしばらくそのまま使っていたのだが、鍋などをかき混ぜるときに金物の部分に直接触れるのでは火傷し兼ねないから捨てよと何度も注意したにもかかわらず、不景気の折柄、面倒くささも相俟って妻としては買い替えを後回しにしていたものであった。その、柄の取れた ”おたま” が、このまま寝かせておいてやろう、とオレさまを救ってくれたのである。

そのおたまも、ついに捨ててしまったことを思い出しつつ、『思考の紋章学』 の 「付喪神」 の章を読み終えて再び書棚に押し込み、さらに借りておいた 『新暗行御史』 を少し読む。文秀と春香の結びつきが少し強引にも思えたが、風土の違いも微妙に影響していそうなので、とりあえずしばらく読んでみようと思う。そういうわけで、のっそりとベッドを抜け出して貸本屋に行って続きを借りる。ついでにCLAMPの 『新・春香伝』 も借りてみる。うーむ。いったい自分は何処へ行ってしまうのか。