朝から雪。ひょっとしたら昨晩からだったかも知れない。
エジプトの大規模デモによる混乱にまぎれて、エジプト考古学博物館略奪被害に遭ったという。最初は若干の失意を伴って報道記事を読んだ。ツタンカーメン王墓の副葬品などは三千年を遡ることのできる世界一級の文化資料に違いないのである(ただし、外国に住む自分は観たことが無いし、観てみたいと思うことはあっても、生きているうちに絶対に観てやろうとまでは思わなかったくらいの重要度ではあるが)。過去の記憶を永きにわたり保持し続ける仕組みこそが文明社会の本質であり、完全なる記憶の継承こそが人類進化の究極の到達点ではなかったのか、九仞の功を一簣に虧くとはこのことであり、まことに遺憾まことに残念としか述べようがない……というのが最初の反応ではあった。
けれどもそのうちに、木とか鉄とかでできたものが、三千年もずっと朽ちずに在るということは、やはり異常なことのような気がしてきた。永遠の生命、永遠の時間が、ある種の浪漫を漂わせてはいるが実際には残酷でおぞましいものであり、自分は決して永遠であることを望まないであろうことを我々自身どこかで認知している。文化遺産を保護することは、文化遺産を愛玩しそれに永遠を強いることだ。しかし付喪神というのは良い神ばかりではない。形あるものは、やはり壊れてしまったほうが幸福なのではないか。まあ、いいか。
月例の読書会に参加する。採り上げられた作品は、遠藤周作『海と毒薬』。約20名の参加者にあって、作中の重要な事件ともいえる生体解剖についてはあまり語られることはなかった。おそらく、そもそもが論外なのである。読書会には、従軍経験を持つ人や、戦時中の記憶を残している人がおり、他にも結核治療の歴史に詳しい人や、当時の九州帝大周辺の地理に詳しい人までいたりして、とても自分が何かを語れるような気がしなかったのだが、しかし何かは語らねばならぬという気持ちもあって、とりあえず『海と毒薬』というタイトルについての印象と、簡単な感想と、『悲しみの歌』という続篇(のようなもの)の存在を伝えてみる(『悲しみの歌』のことは知らない人が多かったようだ)。もちろん、本来感じ取るべきこと、すべきと思うことなどについては棚上げにしたままである。
タイトルの「海」という言葉からこの作品に即して推理し得るものは、繰り返す波とその浄化作用だ。そして「毒薬」とは、文明史上に散在する様々な事件を指しすのではないか。忌わしき事件も、その記憶はいつしか忘れられてまた繰り返す、そういう作者自身が抱いている諦観や無力感が『海と毒薬』からは伝わってくるように思う。しかし、少なくとも戦争体験を持たない者は、この作品に触れることで、過去の記憶を喪失した国民でいることの是非について否応にも考えずにはいられなくなる。記憶再生装置としての役割は充分に果たしているに違いない。
ところで、作品中には様々な死があらわれる。脳溢血などの突然死、B-29の空襲による被爆死、肺結核により待つばかりの死、手術の失敗に依る過失致死、大陸での殺戮、死産、自殺、死亡確率の高い実験的手術、生体解剖による死刑。小説では触れられていないのだが、史実においては捕虜となった米兵たちの乗っていたB-29が墜落したのは、19才の学徒兵が決行した空中特攻によるものだったらしい。米空軍は福岡市街に対して無差別爆撃を行っていたようだ。wikiに書かれていたことなので、本当かどうかは分からない。
「毒薬」の指すものについて、首をかしげる人も多かった。自分自身の中にある何かではないか、という意見もあった。皆、毒気にあてられているようだった。読書会は20時過ぎに終わって、バスで地元まで戻り、地元の居酒屋で妻と焼酎など飲んでから帰る。