読書の楽しみ

注釈の多い本が好きだ。宮澤賢治注文の多い料理店』は関係ない。注解だのコメントだのがたくさん付いてくる本が好きだ。
たとえば岩波文庫の『西遊記(一)』(中野美代子訳)は、全部で454ページあるうちの約11%(52ページ)を巻末の訳注が占めている。訳注の最初は、本文冒頭の「開場詩」に対して付されたもので、約500文字が費やされて何かいろいろ書かれている。読み進めたところまでの本文よりも長い。その先は単位の話や易卦の解説、陰陽五行の仕組み、武器の説明、孫悟空猪八戒の属性?、少し歩いては立ち止まるたびに西遊記の世界観がどんどん際立ってくる。
注釈の多い本が好きということはどういうことなのか。脱線するのが好きということか。そもそも著者と注釈との関係とはいかなるものか。注釈とは、注釈するという行為とは、いったい善なのか悪なのか。そのことを考える作業は読書とどう関係するのか。いろいろ考えてみたいところだが、とりあえず身近に見つけた注釈の多い本をもう少し並べてみることにする。
西遊記(一)』のように注釈の占有率が11%でも相当な量だと思うが、たとえば新潮文庫芥川龍之介の短編集『羅生門・鼻』を広げてみると、注釈率(という言葉をいま作った)はさらに高くなって、全文301ページのうちの75ページが注釈のページである。じつに注釈率25%、4分の1が注釈だ。そうして「きりぎりすとは昔のこおろぎのことですよ」とかいうような(豆腐が納豆みたいな話だな)注釈がいろいろたくさん付けられている。これだけで芥川龍之介の魅力は25%くらい高く感じられてしまうのではないだろうか。
手持ちの文庫でとくに気に入っているのは、岩波文庫『スッタニパータ』(中村元訳)と、ちくま学芸文庫ツァラトゥストラ(上)』(吉沢伝三郎訳)である。『スッタニパータ』は453ページのうち241ページが、『ツァラトゥストラ(上)』は496ページのうち270ページが訳注で占められる、どちらも実に45%という驚きの高・注釈率本なのである。もはや”殆ど2冊”状態。2つ並べると”殆ど4冊”状態。1人と呼ぶには大き過ぎ2人と呼ぶには理不尽と古館伊知郎が仰ぎ見たあのアンドレ・ザ・ジャイアント級のモンスターたちだ。
ちなみに『スッタニパータ』は、最初の五文字目でもう訳注が入る。「かの尊き師(*)」だ。そうして最初の1ページ目が終わるまでに8個の注釈がつけられて、そこまでの本文よりもずっと長い解説文が腕を組んで待機している。『ツァラトゥストラ』ならば、最初の一行で2つの訳注が入る。「湖(*)」と「山(*)」だ。どうせなら「ツァラトゥストラ」にも「三十歳」にも注釈をつけてほしかったな。こちらは最初の1ページ目が終わるまでに、じつに10個もの注釈が入る。本文の最初のページを読み終わるまでには、読者の顔つきも歩く姿もすっかり変わってしまうだろう。
注釈の入り方にもいろいろある。岩波文庫戦争と平和(一)』(藤沼貴訳)は、小説の進捗に合わせてコラムが挿入されている。コラムは7つあって、(1)ロシア人とフランス語/(2)ロシアの暦/(3)名の日とロシア人の姓名/(4)貨幣価値/(5)兵役・貴族の勤務義務/(6)遺産相続,持参金/(7)軍の組織と部隊の種類……という当時のロシア事情を解説するもので、人間と国家の運命を語る文豪の声に魂を振るわせながら、ときどき訳者のコラムで一息つきつつ理解を深める……ここにもまた戦争と平和のモチーフが、まあ、いいか。『戦争と平和』の邦訳本は他社からも出版されているが、なにしろこのコラムの存在に惹かれてつい岩波文庫版に手が伸びてしまうのは仕方ないのことではないだろうか。熱い紅茶にプチット・マドレーヌが浸されて待っているような気がしたり。全然関係ないか。
それにしても不思議なことだが、どうやら”注釈”というものが読みたいわけでもないらしい。生命保険の約款みたいに、いくら注釈が多くても本文そのものに興味が持てないものは敬遠したいし、聖徳太子法華義疏』、北村季吟『湖月抄』、本居宣長古事記伝』など、いわゆる注釈書と呼ばれる分野の文章もその文章自体に注釈が付けられていない限りは注釈的魅力(そんなものがあるとして)が感じられない。あくまでも原典に触れながら、そこに訳者や発行人が気まぐれに(?)割り込んでくる状況が好きなのだ。たぶん。皆の脱線しながら続く長い話をゆっくり聞いているのはとても楽しいので、そういう本はあまり先を急いで読まないことにしている。