昼頃、御用聞きに実家の母を訪ねる。とくに必要ないというので、適当に掃除などしてやる。母は退屈をしのぐように川島教授の音読ドリルなど出して『羅生門』の十数行をブツブツと読んでいた。やがて帳面を引っ張り出して”揉烏帽子”という字を書き写し、さらに”揉むという字は手編に柔らかい”とまたブツブツ言いながら”揉”の字だけ三度帳面に書き取ってから、疲れたので肩を揉んでくれと言った。ミドリムシの力で空を飛ぶのだとか、話したいことはいろいろあったようだが、自分は肩を揉んでやりながら生返事ばかりしていた。
予約しておいたとおりに歯医者へ行つもりが30分も早く着いてしまったので、隣にある書店に寄って遠藤周作の『悲しみの歌』を購入(『海と毒薬』のその後を書いた作品)。歯医者の待合で少し読む。歯の治療は約5分で終了。30分は使わないようにと言われた。2千5百円。30分は使わないようにと言ってやる。歯の痛みが完全制圧されたところで「排他制御」という言葉との関係について少し考えてみたり。
太陽はまだ落ちない。いつものように貸本屋に行くため電車に乗る。着いた先の駅の構内では、歯科医院のインプラントの広告看板の隣に、レンブラントの展覧会のポスターが貼られている。そんなことばかり気になる。改札を出て階段を降りながら、後ろの親子連れの会話を背中で聞く。
「ここカイダン?」
「そう」
「イエーイ、カイダンすき」
貸本屋の前まで来てみたらシャッターが降りている。一瞬、臨時休業かと疑ったが、良く考えてみるとまだ開店時刻に達していなかった。「早すぎたんだ……」と心の中でつぶやいてみてから暗澹たる気分におそわれる。いつまでナウシカかと。とりあえず開店まであと20分程度なので、時間つぶしにその辺りを一回りをすることにしたいが、その前に温かい飲み物を買いに近くのコンビニへ入る。
時間をつぶすのが目的ならば、コンビニでの過ごし方も違ってくる。ウルトラマンゼロだの仮免ライダーだののヒギヤが入った箱を一つ一つ手にとってしばらく眺めてみたり。綾波レイの絵のついたバレンタインチョコを買うのはやはり男子かあるいは女子か、と尽きぬ思案を巡らせてみたり。いずれにしても大人には関係ないものだ、と自らに言い聞かせつつ、砂糖不使用のミルク入り缶コーヒーを買って、北風が吹き荒れる冬の住宅街に向かって歩きだす。
歩くといろいろな考えが頭に浮かんでくる。たいがいは役に立たない事ばかりだが、それでも思いついたことはメモに書きとめておきたくなって、立ち止まるために一旦住宅街を抜けようと彷徨っていたら、小さな児童遊園地に行きあたった。四方を民家に囲まれながら当然のように誰もいないその遊園地は、全体がうっすらと砂に覆われたようで、ベンチにも遊具の上にも至る所に落ち葉が散らかっていた。高いケヤキの上からカラスの羽音が聞こえる。一旦は躊躇したが、大変な勇気を抱いて公園に入り、低い石塀の上に缶コーヒーを置いて、持っていた手帳を開く。なんだか悪いことをしているような気がして、居たたまれなさにメモをとるペンを急がせている。民家の窓のむこうに気配は感じられないが、きっとカーテンの後ろ側で半ば警戒しつつこちらの様子を窺いながら、にわかブロガーが文士気どりで何かしよるわ、と嘲っているのに違いない。いやそのとおりなのである。下腹部あたりから恥ずかしさが突きあげてきたところに、一匹の野良猫が現れてニャーと威嚇してきた。ゆっくりと手帳を閉じて公園を離れる。
あらためて訪れてみると、もう貸本屋は開店していた。店の外で煙草をふかしていた店主と挨拶を交わす。世間話を少ししてから、『無限の住人』と『ホムンクルス』を借りて帰ってくる。早く人間になりたい。