両手を広げて雪の上に倒れ込んで起き上がると人の形が残る。レコード盤というのは、喩えてみればそんなものではないだろうか。そして、かりにスコップを使って、白い雪原に全く同じ人の形を掘り出すことができたとしても、誰もそれを前述のようにしてできた人の形と”同じもの”とは言わないのではないか。
レコードの原盤は、音楽が生み出す空気の振動に実際に出会い、共に震え、傷つくという体験を経て生まれるものだ。やがてその原盤に、素材となる樹脂が触れることで、記憶を宿したレコード盤が生まれる。そして蓄音機の針が、そのレコード盤の傷痕をなぞりながらスピーカーを通して再び空気を震わせる。レコードにしろ、あるいは写真にしろ、実体験がDNAの鎖のように重なり合い分裂しながら写し取られてできるものだ。そこでは、初期の空気の振動や光の陰影がそのままの形で存在し続けている。
ところでデジタル録音は、実体験が一旦、数値に置き換えられた形で記録される。数値にはどこかで切捨てあるいは切り上げが施され、その割り切られた数値の羅列を読みとりながら、何か別のもの(電子機器)が自らの音源を駆使して演奏する。デジタル再生とは数値という楽譜を参照し忠実に演奏する仕組みであり、視聴者は機器によって毎回初めて演奏される音をその都度聴くのだから、つまりコピーバンドによるライヴ演奏みたいなものではないだろうか。そうした意味でデジタル音楽は蓄音機に対する楽譜の逆襲であり、デジタル画像とは写真技術に対する絵画の逆襲と言えるのかも知れない。
アナログとデジタルの優劣をつけようというのではない。レコードやフィルム写真を支持する人の気持は少し分かるような気がするし、デジタル媒体にもなんとなく人間の性のようなものを感じてしまうのである。どちらも愛おしいと言えば感傷的過ぎるだろうか。

今朝は遅く眼が覚めて、しばらく布団のなかで本を読んで過ごした。そのうちに天気が良いことに気がついたので、着替えて布団を干し、神社まで1時間ほどウォーキング。帰宅してから後は、外出せずに自宅でゴロゴロして過ごした。ときどきmixi三国志で指示を与えたり。ついでに、ひかりTVで薬師丸ひろ子主演の映画『ねらわれた学園』を観る。80年代は大嫌いなのだが、どうやら角川映画についてはノスタルジアなしには観られないようだ。