最近発見したばかりの近所の図書館が閉館になるらしいと知って愕然とする。昭和の記憶がまた一つ消えようとしている。まあ、いいか。テレビで 『カリオストロの城』 を観る。もう何度も観た映画だから今日は観なくても良いや、と観ないつもりでいたのに結局観てしまった。自分も成長したもので、唱和できる台詞も増えている。”よぉうお、カール……” とか。

パイドロス』 読了。図書館戦争シリーズとの併読の言い分けに、その関連性を無理矢理に探してみたわけだが、実際のところ、この 『パイドロス』 の主題は、「恋について」 であったり、「弁論について」 であったり定まらないとされながら、そのいずれもが図書館戦争の主題と微かに呼応しているように、いよいよ思いたいわけだが、まあ、それはそれとして。

終盤でソクラテスが ”文字”を批判する。エジプトの神話を借りて紹介されるこの文字批判は、どこかで 「文字」 を 「インターネット」 に置き換えられた形でこれと似たような指摘を目にしたことがある。以下はソクラテスの発言からの引用だが、神々の王様タモスが、文字を発明した発明神テウトに対して、文字の効能を見誤っていると指摘しつつその理由について述べた言葉。

(略)……人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられるだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。また他方、あなたがこれを学ぶ人たちに与える知恵というのは、知恵の外見であって、真実の知恵ではない。すなわち、彼らはあなたのおかげで、親しく教えを受けなくてももの知りになるため、多くの場合ほんとうは何も知らないでいながら、見かけだけはひじょうな博識家であると思われるようになるだろうし、また知者となる代わりに知者であるといううぬぼれだけが発達するため、つき合いにくい人間となるだろう。(『パイドロス』275A 藤沢令夫訳)

新書だが、築山節氏の 『フリーズする脳』 という著書を読んで以来、ネットのやり過ぎには充分気をつけようと思っていたところではあったが、かつては文字さえもが生活の妨げとして懸念されたものであったとは、言われてみれば納得せざるを得ないことではある。あるいはプラトンソクラテスの発言を忠実に再現してみただけのつもりなのかも知れないが、多くの著述を残したプラトンでさえ、文字に対する過信を自ら戒めようとした可能性があることは胸に刻んでおかねばなるまいな。ついでに言えば刻んだ胸の傷からは、長らく手紙で通じてきた恋人にある日一方的に交際を拒絶されたような失意さえ滲むように感じるのだが、おそらくプラトンもまた、その失意に苛まれた一人だったのだろうと思うから、まあ、いいか。

いまほどに個人主義やキャラ化が浸透していなかった、ほんの数十年前の日本社会で生れたコンテンツ(著作物)が、すでに若者からは違和感をもって珍重されつつある現代である。わずか数十年のジェネレーションギャップにさえ翻弄される我々が、ニ千年もの時間とさらに洋の東西の隔たりを超えることで生じるであろう言語感覚のズレを、あるいは半世紀ほど前に本編の翻訳に取り組んだ訳者との言語感覚のズレを、どれだけ吸収する技術を備えているか甚だ疑わしいことに気づかされた。わかっているつもりでも気づかされた。まあ、いいか。

余談だが、中島敦の 『文字禍』 という作品が、舞台を古代アッシリアに替えて似たような主題を扱っている。アッシリアの老博士は、文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなったという統計を得て、”獅子”という文字は本物の獅子の影であるかも知れない、”獅子”の字を覚えた猟師は本物の獅子を狙う代わりに獅子の影を狙うようになったのではないかという仮説に至る。なんだか結局イデア論みたいだなーと。まあ、いいか。