朝8時起床。とりあえず録画しておいた狂言 『花折』 を観たり。野村万作翁の軽快な所作など眺めつつ、一段と良うござる、などとテレビに向かって唱和してみたり。それからゆるりと身支度をして出かけたり。午前10時には上野着。本日は入場と常設展示が無料ということで国立博物館へと自然に足が向いていく。正面入り口付近で獅子舞など舞っている。一段と良うござる。ご祝儀の手拭が飛ぶ。とても拾えない。一段と良うござる。本館に入場して、真直ぐ2階に移動、例の長谷川等伯の松林図屏風など拝見。うーむ。うーむ。うーむ。残念ながら自分には、まだこの図を補って国宝に高めるほどの心的技量が備わっていないようだ。それにしても外国人多い。展示物にカメラを向けるなー、と心の中で見えない銃を撃ちまくりつつ、本館内をぶらぶらする。常設はほどほどにして、せっかくなので平成館に移動。当日観覧料 1,400円×2人を潔く支払って 『近衛家1000年の名宝』 展を観覧する。

書画骨董は苦手なのだが。とくに書かれた文字が仮に読めたとしても内容が判読できないとくれば、さらに興味は削がれるのだが。いや確かに、藤原道長自筆の日記と言われれば、自分もちょっとは気になるわけだが、何よりよくもまあこれだけと呆れかえるほどに溢れかえる数の老若男女が、一所懸命にアクリル板に額を擦り付けて、古びた紙切れに熱い視線を注ぎ入れる様子を目の当たりにすると、あの、ちょっと、僕にも読ませて、ちょっと読ませて、という気になってくる。いや、あらためて対峙してみれば、人の手になる書の魅力も少しは感じられるような気もしてきたり。ひとまず一回りして、マイ・フェイバリットを決めるところから。これは断然、行成である。傾向としても三筆よりは三跡のほうが好ましい。道長の日記の字も良い。家熈の般若心経の隷書も良い。同じ文字であっても、書いた人によってまた違った雰囲気が醸されるようでなかなか面白い。

社会人になりたての頃、通勤電車に乗るとすぐにお腹が痛くなるという病気に暫く悩まされた。しばらくその不思議病とつきあっているうちに、ふと何故か電車の中吊り広告などに描かれた 「絵」 をじっと眺めると、多少その腹痛が和らぐことを発見した。ただし、それは人が描いた絵でなくてはならない。写真はもちろん、レタリングデザインや幾何学模様などでは効果が無く、人間の手によって引かれた線、より気まぐれな描線が自分の神経を和らげるように思われた。もしかすると、その絵を描いている当時の画家の心の安定が、画面を通して自分に伝わってくるのかも知れない。

また別の話になるが、かつて大手町の逓信総合博物館で映画 『男はつらいよ』 の企画展示があって、気まぐれに覗いたことがある。その展示物のなかに映画で使われた手紙というものが、ガラスケースに納められてあったのだが、その手紙といのが、トイレトペーパーに ”さくら心配するな おれは生きている 寅” と書かれたものだった。これなどは書体や文章ではなくて、文字を乗せた支持体(トイレットペーパー)が大切なメッセージを担うこともあるという例ではないかと思う。そういえば、”KY” という言葉を最近よく耳にするが、いつだったか朝日新聞のカメラマンが珊瑚礁に自ら文字を刻み込むというヤラセ事件があったが、あのとき珊瑚礁に刻まれた文字が ”KY” ではなかったか。

西洋にもカリグラフィーというものがあったはずであるが、シニフィアンとかシニフィエとかいう話のついでに、表現された言葉に対する、書体や媒体が担う印象とか付加メッセージなどについては、どのくらい言及されているのだろうか。近代化の波の後ろに置き捨てられたものがまだ何かあるのではないかと、きょろきょろしてみたり。

近衛家の至宝はもちろん古筆だけではないわけで、酒井抱一筆の六曲一双の屏風などもなかなか良かった。納得するまで見回して退場。気が着けば午後2時を過ぎている。食事をしようと思ったがどこも満員。夫婦で励まし合いつつ空腹に耐え、西洋美術館の売店など冷やかしつつ池袋まで移動。西武百貨店のレストラン街にある中村屋キーマカレーなど頂いて帰ってくる。