遅く起きて、ジョギングに出たのは昼過ぎだった。
帰ってきてすぐにやることがないのに気づく。本当はやるべきことが沢山あるのだが、
そういうのとはまた違うんだな。床屋に行けと妻にしつこく責められたが、
生返事ばかりして受け流す。床屋とか、そういう気分でもないのだよな。

図書館へ行くことを妻に提案し、承認を得て散歩がてらぼちぼち出かける。
着いてみるとすでに閉館の1時間前だった。CDを3枚借りる。
ダークダックス全曲集、森山良子ヒットコレクション、吟詠集。
これらのCDは、TSUTAYAやGEOではなかなか見つけられない。
前回借りた謡曲集のようなものも、探そうとしたら大変だ。

正直に感じていることなのだが、近頃は書店や出版社やCD屋、古書店など供給側に、
ポリシーが無いというか、「この本を読ませたい」 「この音楽を聴かせたい」というような、
供給者としての社会的役割に対する使命感のようなものが感じられなくなったような気がする。
辛うじて、レンタルビデオ屋の映画に対するそれは少し残されているようにも思われるが、
かといって今の時代に 『シェーン』 を観る若者がどれくらいいるかと首をかしげてしまう。

明治期の書店(そんなものがあったのかどうかさえ知らぬが)であれば、
この書物は日本の未来のために必要だ、くらいの強い信念を持っていたのではないかと思う。
レストランにだって、日本人にもっと肉を食わせねばならぬ、くらいの志があったはずだ。
それが昨今の供給者は、消費者(需要家ですらない)の期待に迎合してばかりなのではないか。
【売れる商品=良い作品】のような勘違いをしているのではないかとさえ思う。

大きな店内に並んでいる作品は、たいがい新刊や新譜や新古書ばかりである。
地元が田舎なので、近所だけの現象かと思っていたが、そうばかりとも言えなさそうだ。
この間は、ある都心の書店で新潮文庫の棚を眺めていたら、安部公房の陳列が 『砂の女』 一冊だけだった。
一瞬、安部公房の作品がこの日本から消えてしまうのではないかという不安に本気でかられた。

テレビだって相変わらずくだらないし、マンガ雑誌はもっとくだらない。
インターネットはずっとずっとくだらない。オレたちがもっとずっと歳をとって、
入れ歯をしたり、杖をついたりする頃に、ふと懐かしさにかられて、
公園のベンチに腰かけて口ずさむ歌は、Bzだったり、サザンだったりするのだろうか。
オレさまの場合はどちらも殆ど歌えないけれども、例えばビートルズかも知れない。
いずれにしても、薄っぺらな老い姿だ。吐き気がしてくる。

何を荒れているのかそんなことを妻に告白しながら、夜は近所の居酒屋で飲む。飲んでばかり。
妻は 『百合』 の、オレさまは 『赤霧島』 のロック。ロックンロールフェスティバル!
……かと思ったが、本格焼酎ばかりに嫌気がさしたので、すぐに生ビールやサワーに切り替えた。
そしてまた互いに悩みを告白する。妻は仕事の話ばかり。

二人とも酔って店を出ると、まだ9時過ぎだったのでスーパーで買い物をして帰ることにする。
酔っ払いほどいい加減な思いつきをするものはない。食べもしないのにアイスクリーム5個と、
グリコの牛乳1パックを買って帰った。