午前中は、借りておいた 『アメリ』 を観る。先日、音楽データを整理していたら、『アメリ』 のサウンドトラックが出てきたので、久しぶりに聴いてみるうちに、いよいよ再び映像が観たくなったのである。たぶんこれが3度目だと思うのだが、数年のうちに細部は結構忘れているもので、新鮮な感覚で鑑賞できた。何度観ても良い作品だと思う。

初めて 『アメリ』 の情報に触れたのは、じつは音楽からだった。まだ日本で公開される前に、どこかの雑貨店で、店内に流れていた音楽が気に入って店員に尋ねてみたら、その人はこちらの想像を遥かに超えて熱く反応しながら、まだ日本では公開の予告すらされていない 『アメリ』 の洋盤サントラを紹介してくれた。手に入れるのは面倒そうだったので、そのときは縁があったら買おうと思って諦めた。その次は、書籍だった。国内での映画公開にさきがけて映画をノベライズした著書の邦訳版が出版されたのである。100%ORANGEの挿絵がなかなか良い味を出しているわけであるが、奥付に、”Based on the film Le FABULEUX DESTIN D'AMELIE POULAIN” とあったので、「映画を観てからだ」と自分に言い聞かせつつ、何度も平積みの前を通り過ぎたのである。しかし、世はじわじわと 『アメリ』 ブームが沸騰しつつあり、書籍も売れているようだったのであるが映画が公開されても劇場へは観に行かなかった。直感的に一人でこっそり観るべきだと感じたのである。新作ビデオとしてビデオ屋の店頭に並んだときもまだ観なかった。旧作扱いされた頃になって、やっと待ちに待ったアメリに会う決心がついた。細部は忘れていても、そのときの感動は忘れ得ない。永遠に好きな映画のトップ3に入れておきたい作品である。

世間の一部の皮肉屋のあいだには、アメリとニノを含めてそこに暮らす人々の職業や交友関係から、アメリは決して幸福ではないし、これは「癒し」の映画ではない、との批評もあったようだが、うどん屋に行ってスパゲティが無いと不服を申し立てているようなものであって、『維摩経』 に ”仏国土は本来清浄であるけれども汝がそれと見ないだけである” ともあるように、これは確かに癒しあるいは救いの映画なのだ。

ところで映画はひとつの表現手段であり、映画ゆえの表現の限界も必ずある。例えば、画面に余白がないこともその一つで、神経質な観客の場合は、寝室に飾られた絵は彼女の何らかの性質を暗示するものではないか、などという想像を始めてしまい、肝心の場面を見逃したり、大きな勘違いや思い込みをして、作品に対する印象を歪めてしまうこともあるだろう。アメリの寝室に飾られている絵は、映画のためにミヒャエル・ゾーヴァが描き下ろしたものらしいが、そうした誤解を除くためにも、先入観が介入し難い描き下ろし作品である必要があったのかも知れない。まあ、あれだ。『治療中の犬』 は可愛いよな。

そういえば、書籍版ではゾーヴァの絵が喋るシーンはどうなっているのか。非常に気になるので、電車に乗って池袋へ行き、LIBROで例の 『アメリ』 のノベライズ版を探す。自力では見つけられなかったので、店員の女性にお願いして探してもらった。素敵な女性だったな。

購入した 『アメリ』 を持って電車のなかでスキップしながら帰宅し、インターネットでジャパンカップの結果を確認する。脈絡のないのが人間の生活パタンの基本である。ディープインパクトが当たり前のように勝ったようだ。うーむ。 ”しあわせはいつもじぶんのこころがきめる”(相田みつを