妻が義妹の家に泊まりに行くというので叩き起こされる。豚汁と白飯を炊いてあるからと、夕飯についてのレクチャーをあれこれ受ける。さっさと出かける妻を追いかけつつ途中まで送っていきながら、自分は上野の国立博物館へ行こうと思い立つ。例の 『仏像』 展が12月3日で終わってしまうことを思い出したのである。

[10分待ち]という立て看板を横目で睨みながら、新聞屋にもらった割引券で200円引きで購入した入場券を手に、足早に平成館に向かってみるとすでに入り口は長蛇の列。その最後方で[ここから20分]というプラカードを持った係員が、極まり悪そうにうろうろしている。このまま列に加わったら[あと30分は覚悟しろ]と誰かに耳打ちされるかも知れない。

このあいだ古書市で購入した 『花のパロディ大全集』 210円を読みつつ、ニヤニヤしながら15分ほどやり過ごしたら、そのうちに入場が赦された。建物の中に入ってみれば、たいして混雑してない。なかなかやるな、国立博物館

とりあえず、一番最初の観音様を拝んでみる。うーむ。白檀の一木彫。うーむ。手の込んだ細工。うーむ。これは長くかかりそうだと覚悟する。それから、しばらくは十一面観音のオンパレード。その果てに、件の滋賀向源寺の観音様が、スーパーモデルみたいに高台で衆目を集めていた。うーむ。抱きつきたいほどの艶めかしさ。いったい仏師はどういうつもりか。うーむ。

ふと、もう一方の主役である、エントリーNo.20、如意輪観音半跏像様がおられないことに気がついた。つかつかと会場の端まで歩いていって、どうなっておるのかと黒服を問い質すと、あれは向源寺の観音様と入れ替え展示でございますという。うーむ。まさにアイドルの追っかけ的敗北。

2ちゃんねるでときどき見かける ”中の人も大変だな” という状態を具現しているのが、有名な宝誌和尚立像である。本日の目的の一つがこれ。ちくま学芸文庫版 『表徴の帝国』(ロラン・バルト) の表紙にこの仏様の写真が使われているので、ずいぶん前から一度実物を拝観してみたいと思っていたのだが、グロテスクとも受け止められる場面なのにとても柔和なお顔をされていらっしゃる。シュワルツェネガーの映画にこういうのあったな、などと俗な連想に結びつけてしまう自分を反省しつつ、室町時代の僧、一休禅師の歌に、

 としごとにさくや吉野のさくら花樹を割りてみよ花のありかを

という一首があったのを思い出す。ある山伏に 「仏法とは何処」 と問われて 「胸三寸にあり」 と一休禅師が答えたら、山伏が 「では見せていただく」 と抜き身を光らせたので、すかさずこの歌を詠んだという話であるが、一休和尚のなかの人は案外、胸を割られることを期待していたのかも知れない。そうして結局、見せ場を失って内心がっかりしていたかも知れない。

今日のもう一つの目的は、円空の実物を見ることだった。岐阜県人会会員としては当然身に着けておくべきステータスのひとつである、などと軽率に近づいてみたら、いきなり脳天を鉈でカチ割られた。円空は凄い。空飛ぶ円盤みたいな名前だが本当に宇宙人かも知れない。円空はよく木喰と並び称されるが、とんでもない。木喰の仏像は、いわばアートであるかも知れぬが、円空の仏像は Nature なのだ。ヒトという自然現象が産み出した仏という自然現象なのである。持って帰ったら絶対に罰が当たる。

振り返ってみれば、円空や宝誌和尚や向源寺の観音様以外にも、元興寺薬師如来立像も高貴な顔立ちでなかなか。鉈彫の男神坐像というのも存在感があってなかなか。本当は、仏像を美術品として鑑賞しようとする行為自体がナンセンスに思われたりもするわけだが、一体一体、心の中で手を合わせつつ、そーと前を通らせていただいて博物館を出てきた次第である。

帰り道に貸本屋に寄り、さらに床屋へ行こうかと思ったが、混んでいたのでやめる。帰宅後、JRAのホームページでJCダートの結果を見てがっかりする。




表徴の帝国