どこかの公園で野良猫みたいにゴロゴロしようと思って家を出たのだが、レオナルドの 『受胎告知』 を観ていなかったことを思い出して上野へ。元々好きな絵だったので、長い間自宅のパソコンの壁紙にしていたのだが、日本に来ることが決まったとの新聞記事をみて狂喜し、さらにそこに掲載された写真の色合いのあまりの鮮やかさに愕然とし、自分の持っている画像が色褪せていくことに焦りを感じ、それ以来、壁紙は別の画像にしている。オレさまの中で、この問題に関しては時間が止まった状態なのである。

用意の良いことに、妻は2枚の前売り券をすでに買って持っていた。決断がやや遅かったため、上野駅に着いたのは10時過ぎだった。人の流れを見る限りはいつもと変わらなかったが、国立博物館まで行ってみるとすでに長蛇の列。40分待ちの状態だとかいってやがる。人混みのなかに拘束されることが苦手な我々は、この時点でもう本日の観覧は諦めた。ただ、幸運なことに博物館内の庭園が珍しく開放されていたので遠慮なく入場させてもらうことにする。大きなユリノキに挨拶し、木陰のベンチに腰かけて、人の流れと、スズメの小さな頭を眺めて過ごす。神が造った傑作のひとつに、スズメの頭は数えられると思う。

しばらくベンチで妻と世間話などしたのち、庭園内の法隆寺宝物殿にも行ってみた。妻も自分もこの建物が嫌いではない。ここの1階の薄暗い空間には、何十体もの小さな仏像が、1体ずつガラスケースに納められて陳列されている。闇のなかに整然と浮かびあがる無数の仏たち。曼荼羅を思わせるような不思議な空間である。時間だけはあるので、ゆっくり1体ずつ挨拶して回る。ここでも白人系の外国人観光客の多いのが目立つが、そういえば、彼らの目には仏はどのように映るのだろうか。
博物館を出て、妻に誘われるまま国際子ども図書館に入る。国立国会図書館支部図書館だそうで、もちろん入館は無料。1階の子供用フロアで、子供たちに混じってしばらく児童書を読んで過ごす。外国の絵本で、怖がりのおばけの子供が一人で屋敷に住んでいる話があったと思うのだが、その題名がどうしても思い出せない。自分で緩んだ床板を踏んではギイイイと鳴った音に震え上がったりしてな。可愛かったな。あのときに買っておけば良かった。本当に悔やまれる。

テラスのカフェでバナナジュースを飲む。そのままそこで、自宅から持ってきた文庫を少し読む。沢田允茂 『考え方の論理』 。小学生に向けて書かれた本であるが、子供に伝えようとするからこそ高度な説得技術が求められるわけで、中途半端な大人にとっても有り難く、息永く版を重ねていって欲しいと思う一冊。陽射しも暖かく、あまりの心地よさに、本を持ったまましばしば眠ってしまったり。すっかり心を入れ替えて、3階のミュージアムで 『大空を見上げたら−太陽・月・星の本』 展をやっているのをざっと眺めてみたり。そのうちに妻は備え付けのパソコンの前に座って視聴覚資料を漁りはじめたので、自分はまた近くの長椅子に腰かけて眠ってしまったり。何故こんなに眠いのか。

国際子ども図書館を出て、駅のほうに引き返そうと黒田記念館の前を通ると、職員と思われる人が扉を開いて我々を誘っている。黒田記念館が開館している。まさか公開日が設けられているとは知らなかったのでややうろたえつつ、誘われるままに入館する。無料。感無量。しかも、かの 『智・感・情』 の実物がここにあることも知らずにいたわけで、思いがけない幸運に再び感無量。それにしてもこの大きな作品を見上げるにつけ思うのだが、三美神にも擬えられそうなこれら3人の女性のうち 「情」 だけが妙に生々しいというか、少なくともこの1枚だけは子供には見せられないというか、とにかく画家の作為が強く感じられるのは気のせいだろうか。ともに日本人女性を描きながら、「智」 も 「感」 も日本的なものから多少離れたところにあるような印象を受けるのだが、「情」 に限っては、西洋世界とりわけ西洋画のなかには見出し得ない日本的な何かが巧妙に描き出されている。それはきっと、ルース・ベネディクトあたりが喜んで拾い上げそうな何かなのであろうと思い巡らせてみたり。この作品は、1900年のパリ万博に出品されて銀賞を受賞したことでも知られているが、同万博には 『湖畔』 も出品されていたのにもかかわらず、海外での評価は 『智・感・情』 の方が高かったのには、この「情」の1枚の存在に依るところが大きいのではないか。ちなみに 「智」「感」「情」 をそれぞれ 「理想」「印象」「写実」という、画家の対象へのアプローチ方法に対比させる考え方もあるらしい。「情」 の絵が 「写実」 であるというところが面白い。黒田の絵でもう1枚、『昔語り』 の下絵として描かれた、しゃがんだ姿勢で長い煙管を指に挟んだ着物姿の仲居の図があるのだが、実はこの絵も好きな1枚だ。地上にあって世界の全てを見通すような彼女の視線が妙に懐かしい。

黒田記念館を出て、日が暮れぬうちに帰途につく。途中、妻の希望でTSUTAYAに寄る。ふと思いついてビデオレンタルのコーナーで大映の 『座頭市』 シリーズを探してみたが無し。ストックとフローの違いか、やはり図書館のようにはいかない。書籍コーナーで 『デカスロン』 の文庫版を発見したので第1巻だけ購入してみる。帰宅後、スポーツクラブに行ったあとで、図書館から借りてあった大映の 『初春狸御殿』 を再生して観る。主演の若尾文子は黒い目がとても可愛い。そういえば彼女は黒川紀章の夫人であるが、でもべつに都知事選にちなんで借りたわけではないが、でもそう考えてみるとなんだか黒川氏が無性に羨ましくなってきた。うーむ。どうしてくれようか。うーむ。まあ、いいか。この映画には勝新太郎も出ているから借りたのだが、初めに登場してきたときにはそれと気づかなかった。いつでも仕込み杖を持っていてくれないと困る。