午前中は出社していた。昼過ぎに妻と池袋で待ち合わせていたが、作業が長引いたために待ち合わせ場所に行けなかった。妻も携帯電話を持っていないのでこちらからは連絡のしようがない。そのまま放っておく。
夕方、まだ明るいうちに帰宅してみると、妻はまだ外出中だった。居間で少し眠っていたら、やがて妻が帰ってきて目が覚めた。待ち合わせの場所に行けなかったことを謝る。妻は怒っている様子はなかった。確かに、会えない場合もある、というだけのことだ。必要を感じたときには躊躇なく携帯電話を持とうと二人とも決めているが、持たない生活もそれなりに楽しい。
借りておいた 『華氏451』 を観る。映画のなかで燃やされる数多の書籍のなかに、サリンジャーナボコフがなどが見られて時代を感じさせる。読書の習慣を失いつつある世の中だけでなく、書籍に心を囚われた人種をも痛烈に批判しているようで、結末も決して HappyEnd には見えなくて、両者引き分け……ていうか 「両者棲み分け」 である。このあたり、メディアが映画である故の作為もあり得るので、正確なニュアンスを知るためにはやはり原作を読んでみなければならないのだろうと思う。ただ、原作が書かれた1967年から40年を経た今日に至っても、作品が持つメッセージ性は相変わらず新鮮に保たれていることを考えると、人類はそう簡単には進歩しないのだということだけは明白らしい。いや、そもそも国家的に本を燃やすというイベントは、中国の歴史にもヨーロッパの歴史にも見られるもので、知識と社会性との共存は人類の永遠のテーマなのである。それにしても、自分でせっせと集めた書籍が公衆の面前で他人に燃やされるというのは、想像してみるとなんと恐ろしいことだろう。