いつもより30分も早起きをして、10分も早く家を出て、5分も速く歩いたのに、駅についてみたら電車は遅れていて、列車ダイヤは駅前いやしの森公園のビオトープの生態系のように大いに乱れてしまっている。その騒然としたプラットホームに、いつもなら絶対に見ることのない早い時刻の快速電車が冷たそうな脇腹を摺り寄せてきたので、つい運命に逆らうことを忘れて乗り込んでしまったら混んでいる。立ち飲み屋のブリ大根でもこれほどは煮詰まらないだろうと思われるほどの大混雑ぶり。これでは本が読めない。降ります。降ります。降ります。と心の中で小躍りしながら欽ちゃんのツッコミを待ってみたがそもそもネタ合わせができていない。まだ冬なのに芋虫は、次の葉っぱを求めてモコモコ蠢き始める。まあ、いいか。次で降りる。そう決めた矢先が、運転調整のためのろのろ運転。気が変わる。乗り換えていたら遅刻する。このままこの電車で行こう。この電車にどこまでもついて行こう。この電車は無二の電車、この鉄道は無二の鉄道なり。
ようやく最初に停まった駅で、降ります降ります降りますと叫ぶ人に背中と親切心と仲間意識を押されて自分もとりあえず列車を降り、彼の後ろ姿を目で追いながら、あれはオレ自身ではなかったかと、しばし夢と現実の桶狭間今川義元のごとく彷徨いかけたがはっとして、出発の合図のあるうちにまたこの列車に乗ろうとしたがもう満員で乗れない。満員で乗れない。いままで乗っていた私が満員で乗れない。左右のドアを眺めてもとても乗せてもらえる雰囲気ではない。いいでしょう。潔くあきらめて列車から身を引きます。そうして次の電車が来るのを待ちます。なにしろいつもより早い時間に家を出てきているのだから。左様なら。余裕の薄笑いを浮かべつつ後ろを振り返ってみたら、もうすでに次の電車を待つ吊革に飢えた野獣達がホーム一杯に列をこしらえている。弱肉強食の厳しい世界。動揺を気取られぬように泰然と、その列の最後尾に自分も並ぶ。やがて新しい満員電車が来る。到着するなり食傷気味に膨れ上がった腸の中身をホームにぶちまける。蜘蛛の子を散らしたように無数の乗客が逃げ出してくるも、本当に逃げおおせたのはそのうちの数名だけで、ほとんどがマラウィ湖シクリッドの稚魚のようにマラウィ湖シクリッドの成魚の口中へとまた吸い込まれていく。さらに列に並んで待っていた我々もそれに続く。信じられないことだが乗りたい人ならば誰でも必ず全員が乗れてしまうのが満員電車なのである。自分も冷たい風に頬を打たせつつ、宇宙の大いなる摂理と時の流れとに従って列車の入り口に向かっていく。しかしこれも信じられないことだが、乗る寸前のところで車内が飽和状態に達してしまい自分だけ乗ることができない。乗りたくないのか。自分は本当は乗りたくないのか。自分の心のどこかに疑念が潜んでいるのか。左右のドアを眺めてもとても乗せてもらえる雰囲気ではない。まだまだ未熟者である。いいでしょう。潔くあきらめて、また次の電車を待つことにする。そうして振り返ってみたら、もうすでに次の電車を待つ人々がホーム一杯に列をこしらえていた。いつか見たことのある風景。これからも永遠に見続けることであろう風景。列の最後尾に並び直しながら、胸の内では様々なものを諦めていた。何度か既視体験を重ねながら、やっと職場に着いた頃には、いつもより20分遅れの遅刻だった。

出社してみれば、3つも4つもトラブルが同時発生。へとへとになって退社。帰途の池袋で、西武百貨店の古本市を覗く。最近、自分がどうして本を買ってしまうのか、その理由が何となく分かったような気がしている。もの心ついた時分から書店に入り浸りだったので(読書家だったわけではないが)、大人になった今でも書棚の間にいるときが最も落ち着くのだが、書店の棚は常に変化する。棚の配置が、書籍のカバーが、居並ぶ作家が、どんどん変わる。そのうえ、昨日まであった本が、今日には売れたり返品されたりして消えていく。そうした変化がときに許せないのだ。だから買ってしまう。永久に動くことの無いように。要するに自分は、自分のためだけの本屋を作りたいのである。いやもう絶対にそうとしか思えない。しかし、これは恐ろしいことだ。やめろオレ。今すぐその財布を降ろしなさい。本は読むためにあるのです。読む人のために、その本をその手から離しなさい。脚を広げて、両手を壁について、動くな。キミには黙秘権がある……と、映画のラストシーンを妄想しつつ手ぶらで帰宅。