会社を休んで午前中は市役所へ行く。市役所まではバスを使う必要があるわけだが、何処行きのバスに乗れば良いのか、中国行きのスロウ・ボートに乗れば良いのか、他所行きの背広に乗れば良いのか、道行きの近松門左衛門に乗れば良いのか、森雪の宇宙戦艦ヤマトに乗れば良いのか、まあ、いいか。とにかくよくわからないので、インターネットで調べてみてもやはりよくわからない。どのバス停から乗るかは凡そ構想してあったのだが、そのバス停の正式名称がすでにわからない。インターネットで調べてみてもやはりよくわからない。

そういうわけで、とりあえず家を出てみる。時計も持たず、現在時刻を確かめもせず、目的のバス停までひたすら歩いた末に辿り着き、そこにある時刻表や路線図をつくづく眺めていると、そのうちにバスが来た。どうやらこのバスには乗ってはいけないという判断は本能でできる。バスを見送る。このバスはいったい何時のバスだったのか、それが分かれば良いのだが、自分は腕時計をしていなかった。こういうときは仮説をたてる。だいたいの勘でいま通り過ぎたバスのインスタンスを定めてみると、次に目的の行く先のバスがくるのは20分後ということになる。20分もあれば次のバス停まで歩けそうな気がする (天気がとても良いのでそういう気分になったのに違いない) ので、炎天下を軽快に歩き始めたところ、すぐに乗ろうと思っていた目標のバスに追い越された。そのホットな後ろ姿を涼やかに見送りつつ、やがて隣のバス停に到着。曇りなき眼で再び時刻表を見定める。

ここまでのひと駅を歩くのに、どれほどの時間を要したのか分からない。5分だったような気もするし、5秒だったような気もするし、5百年だったような気もする。バスに追い越されてしまった事実と、前のバス停で見た時刻表と微妙に時刻の表記が異なる目の前のバス停の時刻表が、無限に現在時刻推定作業を混乱させる。焼けたアスファルトの上で全神経を研ぎ澄まし、全神経を研ぎ澄まし、いまのセミの声?、全神経を研ぎ澄まし、現在の時刻を改めて正確に論理的に推理してみる。そして目的のバスが次に来るのは、どうやら5分後であるとの結論に至った。5分だけならばこのバス停で待つことにする。そうして実際にそのバスが来たのは凡そ15分後だった。

移動までの苦労を神様が慮ってくれたのか、市役所では意外にもほとんど待たされずに用事が済んでしまった。市役所からの帰途については、バスに乗る前に市役所で正確に時刻を知ることができたのだが、バスの発車時刻までにはまだかなり余裕があったので、少しだけ歩いてみることにする。その途中、何とかいう寺院前に辿りついたのだが、その総門の切妻造りの萱葺きがあまりに美しいので、しばらく見惚れているうちにまたバスに追い越される。まあ、いいか。さらにしばらく歩いたところで適当に後続のバスに拾われて、バスに乗ってみればあっという間の帰宅。午後は惰眠を貪る。