午前中は『西遊記』を読んで過ごした。数年前から少しずつ読み進めてきて、ようやく第六巻。この巻はとくに面白い。猪八戒三蔵法師が妊娠したり、三蔵が淫らな女怪に誘惑されたり、孫悟空の偽物があらわれたり、大物キャラクターの羅刹女牛魔王が登場したり。
西遊記に出てくる妖怪はどれも最初は強いのだけれども、みな正体を見破られたとたんに弱くなって殺されてしまう。不思議。例えば孫悟空のニセモノにしても、斉天大聖(天にも斉(ひと)しい大聖者の意)と自負する本物と互角にわたり合えるほどの強さを発揮していたのに、正体を見破られたとたんに悟空に一撃で撃ち殺されてしまった。不思議。不思議なことだが、そういうものかも知れないとも思う。他者との関係のなかで生きるモノの、何かとてつもなく悲しい本質がそこにあるのではないか。誰でも、多かれ少なかれ暗示や魔法をかけたり、かけられたりしながら、その気になって暮らしているに違いないのである。まあ、いいか。
ところで、その孫悟空の偽物が出てくる第五十七回は少し切ない一話である。悟空は盗賊に襲われた三蔵を救っているうちに勢い余って盗賊(人間)を打ち殺してしまう。三蔵は殺生戒を破った悟空を当然のように追放する(じつはこれまでにもよく見た光景)。すると入れ替わりにニセ悟空が現れて三蔵を傷つけ、荷物を奪って逃げ去る。ニセモノは悟空の本拠地である水簾洞に帰り、三蔵の荷物の中から通行手形を見つけ出すと、自らの妖術によってニセ三蔵、ニセ八戒、ニセ悟浄を作り、ニセモノの一行で再び天竺を目指そうとするのである。じきに本物の悟空が現れて、互いが本物であるとを譲らないわけだが、まあ、それはそれとして。
悟空には選択肢がない。ひたすら三蔵をたすけて天竺を目指すしかないのに、三蔵はいつも悟空に厳しく容赦がないのだ。勝手な想像だが、ニセ悟空としながら作者はこれを悟空自身の分身として描きたかったのではないか。「おれんところにもな、ちゃーんとりっぱな唐僧がいるんだ」とニセ悟空が言い放つくだりは涙を拭わずには読めなかったな。
午後に少しウォーキング。実家で母の御用聞き。それから貸本屋。『羊のうた』の続きを借りる。近所の書店で『トーマの心臓』を発見したので慌てて購入。ついでに『主に泣いてます』(2)も購入。