トーマの心臓』を読む。やはり萩尾望都である。”時計を出したまえレドヴィ!”のコマも見つかって、ようやく気が済んだ。読みながらなんとなく感じたのだが、作品の雰囲気が『カリフォルニア物語』に似ているような気がする。例えばユーリはヒースを、エーリクとトーマはイーヴを、サイフリートはサイファンを、バッカスはインディアンを、アルツト校医はギャラハン先生を、なんとなく思い出させるのである。いやいやいやまてまてまて。肝心のオスカー・ライザーに当て嵌まりそうな人物が見つからない。まあ、いいか。やはり、こういう乱暴な類推はしないことだな。
ちなみに、『トーマの心臓』は1974年から『週刊少女コミック』に、『カリフォルニア物語』は4年後の1978年から『別冊少女コミック』に連載されたのが初出のようだから、どちらも小学館ということで世界観や狙いどころに何かしらの共通点くらいはあったかも知れない。発表から三十年後に、出会いにまかせて拾い読みしている自分が適当に思い至るくらいなので、当時、少女マンガ雑誌をリアルタイムに読みふけっていたファン達のあいだで、この点についての議論が無かったとも限らないのだが、少なくともインターネットで検索してもそんな当時の様子を窺い知ることはできない。本当に議論などなかったかも知れないし、誰もネットに書かないだけなのかも知れない。当時のファン層がいまインターネットを熱心に利用しているかどうかさえ確信が持てない。(実際、どうでも良いことなのだが)
さてしかし、ネットで見つからないところで、なおこの点についての当時の様子を知りたいと思ったら、図書館や古書店などに足を運んで、当時の雑誌などからファンの投稿記事などを探してみる必要があるだろうが、それには大変な労力が要るだろう。実際に今日、図書館には行ってみたが、こうした調べモノに役立ちそうな資料が一般の図書館で見つかるはずがない。かといって古書店を廻るほどの気力はないわけで、そもそも調べようとしている事柄は大した内容ではないのだから、ネットで見つからなければ大概はあきらめる。それだけのことなのだが、しかし、インターネットの情報には偏りがある、と感じるのはこうした瞬間なのである。出版の電子化が進められる一方で、多くの文献や資料や記憶が電子化も再版もされずに失われていくのに違いないことを思うと、56億7千万年後に現れるはずの弥勒菩薩に対していささか申し訳ない気分になる。