リスキリング

最近よく「リスキリング」という言葉が聞こえて来る。はじめ「リスキ・リング」かなと想像した。テレビ局のアナウンサーの発声が、そんなイントネーションだった。ならば「リスクを高めて何かの能力を発動させる」とか「窮鼠猫を噛む」とか、そういうことの意味だろうかと思った。ファイナルファンタジーで、味方を攻撃してレベルを上げるという間抜けな育成法があったのを思い出す。
記事の解説内容などから「リ・スキリング」だと理解した。「再び技術を身につける(新しいスキルを学ぶ」ということのようだ。ベテランの社員が、職場で新しい仕事や技術を学んで、社内で職業転換する取り組みを指すらしい。少子高齢化は深刻な問題となってきていて、どこの企業も人手不足なのだ。リスキリングのためそれなりの費用をかけて、新しい研修制度や学習ツールを準備し始めており、国もそれを支援する方針のようだ。
すごいなあと思うのは、どこからか「リスキリング」という言葉を持ち出してきて、企業に研修システムを売り込んでいま当に利益を上げている会社があるということだ。どこよりも先に時代の変化の波に乗っている。それともやはり、その波こそ作られたものか。
妻にどういう言葉だと思うか訊いてみたら「リスとキリンがいます」と言った。人はそれぞれに棲む世界がちがう。

 

シンクロニシティ

自宅には『ジャズ批評』が一冊だけある。リーモーガン生誕80年を記念したハード・バップの特集号である。

今朝、暇つぶしに開いてみたら、リー・モーガンの誕生日が今日(7月10日)であったことを知り不安におそわれる。たとえ偶然であったとしても、これを何かの啓示と捉えずにおけなくなる。雑誌を放り投げ、周囲を眺めまわして、自分に何かを期待している目に見えない誰かの存在を探してしまう。

そういえば、この特集号の内には、ハービー・ハンコックウェイン・ショーターへのインタビュー記事もあった。そのなかでウェイン・ショーターが、彼がリー・モーガンの実家に泊まった晩に二人が同じように「ライオンの夢」を観たという話をしている。これには、彼らの心理状態とか環境とのあいだに因果関係がありそうだ。全然不思議ではない。

 

 

約束のネバーランド』が、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を連想させるという意見はありそうだが、自分はなぜか『ライ麦畑でつかまえて』を思い出してしまう。

ライ麦畑のなかで何千という小さな子供たちが何かのゲームをしている、大人は自分だけで、あぶない崖のふちに立って、崖から転がり落ちそうな子供がいたらつかまえてやる、一日じゅう、それだけをやればいい「ライ麦畑のつかまえ役」。それが、ホールデンが苦し紛れにフィービーに告白した、彼の「なりたいもの」だった。『約束のネバーランド』を自分が読むときは、このホールデンの言葉が通奏低音となってしまうので、本来の作品とは違うもののように鑑賞してしまっているかも知れない。読者である自分の身勝手な脚色。作者の意図するものではない形での解釈。

長く生きるとはこういうことなのだ。あらゆる記憶が紐付こうとしてくる。『チェンソーマン』のデンジの前に『ベルセルク』のガッツが立ちはだかる。『鬼滅の刃』より『鬼切丸』のほうが怖かったなと不意に背筋を凍らせる。たまたま同時に手にした『約束のネバーランド』にも『鬼滅の刃』にも『チェンソーマン』にも『あさドラ!』にも人外が出てくることに気づくと、それらが身勝手に融合して新世界を構築し始める。ああ、諸星大二郎の『生物都市』が蠢きだす。腰も背骨ももう痛まない……。

明け方、ふと目が覚めて寝つかれず、ふと思い出して、ずいぶん前に読みかけて放り投げていた、足立紳『喜劇愛妻物語』の続きを読みはじめてみる。"三週間後、香川へと出発する日の朝、俺たち家族は薄らと明るくなってきた午前四時二十分に家を出た"

ちょうどいまくらいの時間である。

 

 

ちくま学芸文庫の『深く「読む」技術』という本を読んでいたら、終盤で野坂昭如の小説『火垂るの墓』の冒頭部分が引用されてきた。そこで、ふいに主人公の清太が死んだのは昭和20年9月22日であったことを知る。今日である。