妻を連れて駅二つ分くらいの距離を散歩する。世の中には、いろいろなマニアがいるわけで、河原の石でも、小さな木片でも、ツバメがこしらえた巣でも、高いお金を払って買い求める人がいるものである。自分もそうした高価なモノが欲しいと思ったとき、その高価である理由を納得しないままでは、たとえ入手できたとしても顕示欲以上のものは満たされないだろう。高価なものが高く評価されている理由を実感すためには、人に会って話を聞いたり、食べ比べてみたり、資料を集めたり、そうすることに忙しくなれば、その問題の品物を手に入れるための金銭的な余裕自体がなくなってしまうかも知れないし、もしかしたら対象を深く知ることによってかえって興味を失ってしまうかも知れない。自分自身にとって本当に欲しいと感じるものを手に入れることはとても難しい。気がつくと読書ばかりしていたり。

”欲しいものが欲しいわ” というのは、もう20年も昔の西武百貨店のコピーであるが、いろいろな解釈があるにせよ、少なくともこのコピーの頭には 「皆が」 という言葉は付かないのではないかと思う。他者とは関係なく、評価するのはあくまでも自分自身であるという前提が横たわっている。自分が流通の終着点であることの決意表明のようでさえある。
20年前の当時でもそうだったが、例えば新聞やテレビで 「株」 といえば一般的には相場を指している。そうしたことでも、普段から投機的な価値判断が習慣づいてしまっているような気がする。本来の株式の考え方からしてみれば、企業とともに荒海へ船を漕ぎ出すつもりの投資なので、他の投資家の関心などどうでも良いことに違いないのだが、自分が株を買うことを考えるときには、できれば、他者の関心が少ないうちに何かを安値で購入しておいて、周囲の関心が高まったときに高値で売り抜けられれば有り難いと考えてしまう。いつでも他者の評価を基準にして考えなければならなくなる。経済の指標からしてそうだとなると、書店やコンビニをふらついているときも、心の深いところではいつもそうした投機的な意識が働いているのではないかという、そういう疑念が初めて自分の内で首をもたげ出したのは、この糸井重里の名コピーに触れたあたりからだったように思う。

ショッピングモール内の書店で巡回立ち読み。うろうろうろしつつも、何も買わずに終わる。本当に自分が読みたいのかどうかを一々疑ってしまったのである。まだまだ未熟だ。昼食には駅前の軽食屋に入る。そこで、たぬきうどん……本当にそれで良いのかと疑いつつ、足りないかも知れないと気が着いて大盛りを注文してみたり。その後、妻のわかめうどんと比べて、器こそ大きめだが内容が大盛りなのかどうかがやや判じかねる。うーむ。この際、たくさん盛られているかどうかはどうでも良いことなのだった。「本当に大盛りかどうか」 これほどくだらない悩みは無いのではないか。箸を割りながら、今後は大盛りを疑うのはやめようと決意したり。

再び延々と歩いて帰宅。缶ビールなど開けながら、積読の書棚を漁り、炬燵で読書。また眠ってしまった。気が着くと目が覚めて、『天障院篤姫』 は毎回欠かさず観ていたり。