今読んでいる 『ヘンリ・ライクロフトの私記』 は昨年4月に購入してあったものだが、その当時は少しだけ読んでその都合の良さに抵抗を感じて中途で放り投げてしまったのだが、先日、中島義道の何かの著書を読んだときに、なんとなくヘンリ・ライクロフトの甘受したような幸運も許せるような気がして再読に至ったものである(中島義道のほうは、未だにどうも馴染めないところがあるのだが)。”人が自分の立場から事物をはっきり見定めることは大切なことだ” とはライクロフトの言で、しかも自分ほど心の隅から隅まで徹底した個人主義者もかつてなかったであろうとも言っている(架空の人物だけれども)。そういうわけで、とにかく中島義道を経ると素直にヘンリ・ライクロフトへ入って行けたのである。これは発見だと思う。

そうして、些事に囚われずにライクロフトの言葉に耳を傾けてみると、何とも心が慰められるような気がしてくる。とりわけ現在は安らかな日々を送りながら、過去の不遇だった自分へと向けられる彼の眼差しは労わりに満ちていて温かく、まるですでに死んでしまった彼が幽霊となって過去の時空を巡りつつ回想しているのではないかと錯覚しそうになるほど安らかである。

ところで、この作品が出版された頃(約100年前)の、イギリス社会の姿がなんとなく現在の日本に似ているような気がするのは、気のせいだろうか。あるいは、どの国のどんな時代もいつも同じような様相を示しているものなのかも知れないが、それでも、英国と日本のよく似たところとして、はっきりした四季の存在と、そして島国であるという地理条件があり、ライクロフトはヨーロッパのことを ”大陸” と呼ぶのだが、それは我々日本が中国を ”大陸” と呼ぶときの心情に似ているのではないかとも思う。当時の英国は急激な近代化と地域格差に国民が翻弄され気味だったようで、ライクロフトは科学万能主義に辟易し、”人類はやがて栄養も丸薬の形で摂るようになろう。そういう有り難い経済的な時代が予見されるからと言って、なにも私が大きな肉片を食べるさいに良心のとがめを感じる必要はないというものである。” などとぶつぶつ言っている。そんな風に歴史はどこかで繰り返しているのかも知れない。