矢代梓 『年表で読む二十世紀思想史』 読了。こういう本を探していたので興味深く読めた。諸学の危機の影響なのか19世紀末から20世紀の初頭にかけては主に芸術活動についての記述が目立つのに、第二次大戦の前後あたりから社会思想や自然科学に関連した記述が増えてくる。あるいは著者自身の関心の変化もあったのかも知れないが、「1936年」 の項で、ハイデガーの講演を取上げながら引用された、”乏しき時代に何のための詩人か” というヘルダーリンの言葉が象徴的で、現代とは芸術が社会から隔離された時代なのかも知れない。とかまあそういうことばかり考えながら読んでみたり。

大量消費時代といわれる現代である。消費者が芸術をも消耗品としか感じなくなれば、ウィリアム・モリスの理想とはかけ離れたところで、「売れるもの=良いもの」 という誤解の元に、際限なく市場との妥協を強いられて立ち行かなくなる作家ばかりになってしまうかも知れない。

そういえばその一方で、最近 「消費社会は問題か?」 という問いかけに直面したことがあった。そう聞かれてみると、さてどうだろうかと思い悩んでしまう。もしも1億2千万の日本人の総てが消費活動を優先的に指向しはじめた場合、インフラストラクチャはじきに老朽化し、テレビドラマの原作はコミックに頼りきり、観たことのある邦画ばかりになり、新しい推理トリックは生まれなくなり、何々風の街並みに何々風レストランが立ち並び、決められた役割分担の家族のあいだで紋切り型の会話ばかりが延々と続き、流行はルネッサンスとレトロとノスタルジーベル・エポックの繰り返し、マニュアル以外のことはせず、解法のない問題には手を出さず、複数の選択肢には結論が出せず、穴を掘り尽くし、木を斬り尽くし、贔屓を引き倒し、こんなところで八つ当たりばかりしている自分を反省し、”責難は成事にあらず” というライトノベルの一文まで思い出して反省し、でも、まあ、積極的にその蕩尽生活に埋没してしまえれば余計な苦しみを感じることもないのかも知れない。それも良いかも知れない。

夜は三種会。御茶ノ水。癒える茶でおんぶで、エル茶で、言える、エルチャテオデルモンテトマトケチャペンテ、エル・チャテオ・デル・プエンテ。スペイン料理の店。いつも夜の総武線の窓から見下ろしては、一度行ってみましょうとO西さんと約束し合っていた店である。ワインが中心のようで、焼酎志向の三種会の趣旨とはやや離れてしまうが、定義とか理念とかいうものは常に拡大解釈するためにあるわけで、つまりワインを三種類以上飲めばよろしい。生ハムなど噛み千切りながらジャック・スパロウは良いと褒めると、オーランド・ブルームびいきのO田女史などはしきりに映画における存在感ある脇役の重要性について語ろうとする。忠臣蔵の季節ゆえかO西さんは最初から時代劇モードで 『椿三十郎』 を観るべきだろうかと迷っている。オレさまは完璧な黒澤作品があるのに何故リメイクかとこれまた業界の想像力不足に対し不満を隠せないでいるのだが、時代映画の再興を心から願っているO西さんはまだその先を見通しているのである。じつに難しい問題なのだ。他に、「主は来ませり」 について。拡散と根源への希求が生み出す不幸について。現実逃避について。議論白熱し2件目に突入。沖縄酒家 『かもん』。酢モツの虜になる。