今宵、台風Q号が関東に上陸するということで、首都圏には戒厳令が布かれ、皇居周辺には自衛隊の戦車が、国技館周辺には十両以上の力士が、マシン室にはベテランSEが配置され、稀代の天災暴風雨第9号インスタンスを、挙国一致の決死の覚悟で迎え撃つ体制のなか、すみません、失礼します、と大混雑を掻き分けてやっとのことで出社してみると、さっそく会議だの、打ち合わせだの、ミーティングだの、逢い引きだのが、バタバタとまるで熱病に斃れる現地人のように中止になっていく。手帳に書き込まれたスケジュールのフレームが、夜更けの窓明かりのように次々と消えゆく様を眺めながら、ヒマになるのかと思えばすぐその入れ替わりにお問い合わせだのスクランブルだのが、我も我もと立ち上がり来てみるみるうちに渦中の人となる。眉根をひそめながら台風9号ってこれのことか?とかブツブツ言いながら対応しているうちに定時が過ぎ、あとここだけ調べておこうか、メールも書いておくか、とか言いながら自然に残業モードに突入していたが、途中ではっと気が着いて、台風キュー号が接近中であることを思い出し、慌てて荷物をまとめて帰途につくと外はもう凄い雨。
吹き荒れる風に叫ぶ声が喉から出た瞬間に200m先まで飛ばされていく。横断歩道の水溜りは波の高さ6m、ポプラ並木は女子高生の創作ダンスのように怪しく蠢き、レストランの窓は無意味に広く明るい。多くの人々は既に避難済みで、近未来鉄道のように人気の少なくなった列車を幾つか乗り継いで、ノスタルジックな地元駅の自転車置き場で、暴風雨に曝されながら、雨合羽を纏い、傘を翳し、ヤッと自転車を漕いでよろよろ走ること5分。激しい雨弾を浴び続けた自転車のハンドルがやや溶けかけたころに家の明かりがほの見えてくる。
凱旋するとすぐに閉門を命じ、家中のものを集めて城内の雨戸という雨戸を1時間かけて全て締めさせ、自分はさっさと床に就く。はたして予告どおり、じきに外からバシャバシャとステンレスの雨戸を、はじめは弱弱しく何者かが叩きはじめた。何も聞こえないフリをして目を閉じて羊の数を数える。闇のなかを雨雲のような黒い羊がいくつも幾つも押し寄せてくる。雨戸は次第に強く激しく叩かれはじめる。外の物は明らかに苛立っていた。汗が雨のように流れる。呼吸が風のように荒くなる。台風9号。台風9号。どうでも生贄を望むか。何という傲慢か。己れ来るならこい。もはや逃げも隠れもせぬ。ここで斬り結び果てようぞ。ふと激しい稲光りを感じて目が覚めた。廊下の電気がついている。隣で眠っていた妻がついと起き出して階下に降りていく。時計を見ると、台風9号がまさしく完全上陸を果すと予告していた深夜3時である。「何だ、麒麟が迎えに来たのか?」 と後を追っていくと、妻はそのまま玄関から外へ出ようとする。「ばか者、勝手に結界を破るな」 と咄嗟に叱りつけるが聞こえない様子。引き止めようとする手をすり抜けて、ふらりと玄関の外へ出た妻は、すぐに数本の傘を携えて戻ってきた。風で飛ばされると危ないから、とか言っておる。うーむ。それからまたしばらく、雨戸に叩きつけられる水しぶきとも血しぶきともつかぬ台風の悲鳴を聞きながら、またおどろおどろしい夢など観る。