目が覚めたときもまだ激しく降っていた。おのれQ号。テレビをつけても、新聞を開いても、ラジオに耳を傾けても、電気釜の蓋を開けても、冷蔵庫の扉を開いても、出てくるのは台風のニュースばかり。どいつもこいつも台風9号である。早起きをした妻はしばらく平静を装っていたが、暖めたばかりのアイロンを素手で掴んでしまい慌てて氷で冷やしたりしているうちに、だんだん不安が募ってきたらしい。今日は休んだらどうか、午後からにさせてもらってはどうか、としきりに進言してくるので、ええい台風など怖れぬわ武家の妻なら覚悟せよとすがりつく腕を払いのけ、赤地錦の直垂に、家康公より賜りたる先祖伝来の紫裾濃の雨合羽を鎧着て、鍬形打ちたる雨帽子、こがねづくりの傘を佩き、ビジネス鞄と定期入れを携えて、一日千里を奔る流星号に跨って、うち出でてみれば降り休む小降りを好機と逃さずに、力一杯踏みしめるペダル軋りつ回りつつ、あれよあれよと進軍の視界ひらけて家の外。500mほど自転車を漕いでから異変に気づく。雨は降っていない。誰も傘をさしていない。雨合羽を着ている人などいない。台風はすっかり去ってしまっていたのである。落胆しつつ出社し、夜更けまで残業し、持ってきた傘は 「置き傘」 にして、慎ましやかに深夜帰宅。カレーライス。