驚いた事に七夕というものをすっかり失念していた。まあ、いいか。せめて、半ズボンにランニングシャツでソーメンなどすすりつつ日本の夏らしさを演出してみる。天気は悪いけれどもな。かねてより、小西真奈美が出ているというだけの理由で、我が胸中では重要鑑賞主題に挙げられていた 『UDON』 をようやく観る。いちばん最後のテロップに 「涙とともにパンを食べたものでなければ人生の味はわからない」 という例のゲーテの言葉が顕れて、ここれれももままたたシシンンククロロニニシシテティィみみたたいいななももののかかと戦慄したり。シンクロといえば、映画のなかで、宇高連絡船の甲板上のうどん屋の話が出ていたが、自分もよくこのうどん屋でうどんを食べたことを思い出す。味はともかく、本当に美味かったことだけは確かだ。四国に親戚がいることを幸いに、自分は小学生の頃から夏と冬には四国に預けられた。子供の一人旅で、飛行機で行くことが殆どだったが、時おり新幹線と在来線を使って10時間以上かけて行かねばならぬこともあった。その行程のなかに岡山県の宇野から四国高松へ渡る宇高連絡船があった(いまは遊覧船になっているらしい)。瀬戸内海を渡るだけなので乗る時間は小1時間ほどだったが、その1時間のうちのさらに30分程度の間だけ、甲板でうどん屋が営業する。もちろん透明なツユの讃岐うどんである。夜中でも、昼間でも、そのうどんの営業が始まるとみな甲板に出てうどんをすすった。昼ならば穏やかな風と遠く凪いだ海を眺めながら、夜ならば走る船の波しぶきの合間に青く光る蛍イカを目で追いながら、ひたすらうどんをすすったものである。しかし、自分がその船上のうどんを思い出すときに、とりわけ胸に浮かんでくるのは、四国の在来線の車中で知り合いになった女性のことである。すでに夏休みの過ごし方ぐらい自分で考えたい年頃になっていて、せいぜい1週間程度の四国滞在の後に、嬉々として都会の喧騒に戻ろうとした7月、トンネル多い在来線の混み合った車中に、途中から乗り込んできた彼女がとても美人だったので無理矢理に席を譲った。年上の彼女は大阪に帰る途中で、新大阪までは同じ道程だったので、陽射しの強い宇高連絡線の甲板の上でも、一緒に瀬戸内海を眺めながら世間話をした。つばひろの麦藁帽なんかかぶってるくせに大人びた感じだったな。うどんを食べようと誘って、彼女がご馳走するというのを制して、無理やり奢らせてもらったのを覚えている。格好つけたい年頃だったのである。あの時のうどんの味だけはよく思い出せない。