携帯電話を持たないことは、いまとなっては本当に珍しいことのように思われる。少し以前ならまだ 「持っていません」 と言っても、「へえ珍しいね」 という程度の軽い反応だったが、最近は 「嘘をつくな」 とまるきり信じてもらえないことさえある。持たない理由も聞かれなくなった。もはや議論する時間が無駄なのかも知れない。そんな状態なので、「そろそろ持ってみては」 と知人や友人に柔らかく勧められると、ああまだ仲間として認めてくれているのだと、かえってほっとしたり。実際のところ、ケータイを持つ気になれない個人的な理由などというものはほんの些細な事柄に過ぎなかったりするわけだし、端末の代わりに全身で空気を読み取ろうとすればそんな感じなので、いずれ自分も携帯電話を携帯せざるを得なくなる日が本当に来るのではないかと感じつつある。

それにしても携帯電話の普及はますます進行しているのに違いない。仮に、子共まで含めて個人が一台ずつ携帯するようになれば、つまり電話番号が個人IDとして機能するようになるかも知れない。GPSによってそのIDの現在位置が常に把握され、人生ともいえる行動履歴がどこかのディスクに蓄積され場合によってはその途中で予告なしに破棄される。ID同士の通話と通信もすべて記録される。場合によっては第三者に閲覧されることもある。買い物をすれば嗜好は詳細に分析されて、以後は提案・誘導型の広告が気づかぬうちについてまわることになる。そうした行き過ぎた管理社会の予兆に気づきながらも、かつて 『1984年』 などの小説に描かれた近未来に不安や嫌悪を隠さなかった人々がいま平然と携帯電話を持ち歩いていること、そのこと事態にも戦慄している。電車の中でも、車の中でも、家の中でも、夢の中でも、携帯電話は繋がっている。いずれ棺おけの中にも携帯電話を入れてくれという人さえ出てくるかも知れない。携帯電話はそんな風に信仰さえも変えちゃったりしちゃうのかも知れない。いずれ逃げ切れるものではないだろうから、今は可能な限りささやかなレジスタンスを楽しみたい。