体調が悪いので一日じゅう引き篭もり。用事を済ませに出かける妻を送り出した後、暖かいものでも作って飲もうと台所へ行ったら、食卓の上に 『坊ちゃん』 が置いてあるのを発見する。
フェイクとパロディと本歌取りと変化球とで生きて来たオレさまは、どんな理屈でもねじまげて理解してしまわねば気がすまぬという、実に優秀なトランスレータを内蔵している。新書もそのまま読むと入門書だが、まるきり違う分野に応用するつもりで読むとこれもまた新たな啓示を受けることしばしばである。読書には素直な姿勢が肝要なわけだが、斜めに構えてばかりいるオレさまの場合、読後の理解度も30%程度が限界だったに違いない。とりわけ競馬のホームページを熱心に更新していた時期には、「すべての書物は競馬について書かれたものである」 と思い込んで読むことを無上の悦びとさえしていたほどなわけだが、改めて考え直してみるまでもなく、著者に対してこれほど失礼なことはない。反省すべきだろう。
そういうわけで知名度の高い 『坊ちゃん』 のような国民文学は、格好のネタになり得るため、冒頭の数行と終末の数行くらいはいつでも引き出せるように丁寧に暗記していたりする。オレさまの記憶によれば文豪夏目漱石の 『坊ちゃん』 は以下のような書き出しで始まる。

親譲りの無鉄砲で子供の頃から外ばかりまわされている。地方競馬にいる時分、外ラチに身体をぶつけて3ヶ月ほど骨折したことがある。父馬が大きな眼をして、ラチにぶつかったくらいで骨折するやつがあるかと云ったから、この次は飛越(”ひえつ”)してみせますと答えた。

うーむ。いま食卓の上の実物を読んで比べてみるとだいぶ違っている。このままではいけないので、漱石先生の魂を鎮めんがためと我が暇つぶしのために、あらためて通読してみることにしたら数時間のうちに読み終えてしまった。それなりに愉しく読めた。”水晶の珠を香水で暖ためて、掌へ握ってみた様な心持がした” など、近頃こんな表現にはなかなか出会えるものではない。国民文学もたまには良いものである。
読んでみれば確かに、近頃の大人達がしきりに 「 『坊ちゃん』 を読むべし」 と説く理由がよく判るような気がする。けれども同時に、現代の思春期の男女が、果たしてこれを最後まで面白く読み進めるだろうかという疑問も湧いてきたりもする。読解力がどうのということではない。ここに描かれている個々の登場人物の心のうちを、いまの大人達が期待するようなかたちで感受してくれるだろうかという疑問である。漱石の予感は半ば当たっていたというべきか、彼の知っていた 「近代」 を、さらに突き抜けた現代には、ここに描かれた人々の価値観に共鳴する感覚が果たしてどれほどに残されているのだろうか。