1月が終わってしまったが、百人一首の暗記作戦はいよいよ90番目まで進み、密かに憧れていた、

 見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず 

という殷富門院大輔の詠んだ歌にやっとたどりつく。光琳カルタに描かれた彼女はとても可愛らしい。

最初の半分くらいまでは短期に集中して暗記したが、その後は1日に二首くらいづつ覚えていくようにしてきており、あと4〜5日あれば百首までひととおりは覚え終わりそうである。ただ、それでもまだ不完全なところが残ってはいる。

例えば、いまの自分は上の句を聴いて下の句を記憶から引きだすことはできるのだが、反対に下の句からでは上の句を言い当てることができない。「くものいづこに月やどるらむ」 と聞かれても、見えませんなあ、としか答えられなかったりするのである。これでは、完全に覚え切っているとはいえない。それからもっと致命的なのは、詠み人の名前が全く覚えられていないことだ。たとえ歌を覚えても詠み人知らずのままでは、百人一首の愛好家からは人並みとさえ認めてもらえないのが世間一般の認知するところなのである。だから、90首覚えたとて、いまの実力では、せいぜい45点くらいしかもらえない状況なのだ。うーむ。

とはいうものの、不完全だからといって放り投げてしまっては元も子もないわけで、百点では無かったとしてもそれなりの成果は感じ取っておきたい。例えば、新しい言葉の繋がりを得たことで、自分の感情や思考にも何らかの影響があったのではないか。そういえば、覚えはじめの頃は想像以上に紋切型の言い回しに囚われている自分に戸惑ったりもして、なかなか記憶が定着していかなかったのだが、後半へと読み進むに連れて暗記作業は楽になっていったような気がする。これは暗記をする作業が暗記力自体の強化をもたらし得ることの証しではなかろうか。

また、暗記効率の向上は、暗記力自体の強化だけでなく、ゴールが見え始めたことによる心理的効果も大きいものに違いない。もしもいま覚えようとしている対象が百人ではなく ”千人一首” だったとして、90首まで覚えたが未だあと910首も覚えなければならない状況だとしたら、次に覚える91首目の暗記効率は間違いなく百人一首の場合より低下しているだろう。今回も、最初のうち覚えにくかったのは、あるいはそうした状況に対する心理が作用したのかも知れない。こうしたことから、暗記目標についてはあまり壮大な計画を立てるのではなくて、対象を小さな集合にまとめながら、小さなゴールを積み重ねていく方法が効果的なように思われる。そうしたのちに、小さな集合どうしをまとめてまた集合とし、互いの関連性についてまた暗記していく、というように重ねていけば、自然に壮大な秩序が脳内に形成されていくのではないだろうか。そうしたことに気づいたことも成果の一つだ。

Googleの、世界中の知識や情報をすべてデータベース化しようという試みは、まるで現代世界にバベルの塔を拵えようというような、人類にとっては興奮を禁じ得ない誇り高く壮大な事業であると思う。もしも自分にできることがあるのなら惜しみなく協力させてもらうだろう。いまのところ何もしないのが協力なのだが。けれどもこうした大事業が推し進められる一方で、近頃よく耳にする言葉でもあるが、我々は 「知っている」 ということを 「調べれば分かる」 ということの意味として使用しつつあるらしい。いつでも誰でも何でもインターネットで検索できる時代ならではの現象ではないかと思う。そして、いつでもアクセスできる情報ならば、わざわざ苦労して自らの脳に記憶するようなことは誰もしなくなるのが自然の成り行きだろうし、余計な事物を記憶しなくても生活に支障があらわれないような社会とは、あるいは消費社会の究極の姿なのかも知れない。

今回こうして百人一首を暗記してみると、「生活習慣に関わりのない事物は積極的に覚えようとしない限り覚えられない」 ということが本当に良く分かった。もしも筋肉が衰えるように、記憶力も使わなければ衰えていくようなことがあるのだとしたら、ただでさえ記憶を問われる機会の少なくなった生活のなかでは、細々とでも暗記というジョギングを続けなければ、記憶の健康を維持することが難しくなってくるのではないかと焦り始めたりもするのである。逆に、こうして記憶に定着させた百人一首ならば、パソコンがなくても、電気がなくても、暗闇のなかでも、基本的には消え失せてしまうことはない。百人の歌人はいつでも時空を越えてやってきて、袖が濡れたとか、もの思ふだとか語りかけてくれるのである。そのことに救われる日が、いつか必ずやってくるに違いないのだ。