激しい雨。非常に寒い。ストーブを焚いて、『ウェブ人間論』 を黙々と読む。この人たち(梅田望夫平野啓一郎)は、いまオレのことを話している、そのように意識しながら読むことが重要と思われる。対談の内容は、インターネットを包含した世界で、いま何が起きているのか、何が起きようとしているのかを明らかにしようとするものだが、さてどうすべきという具体的な示唆まではさすがに与えられない。強いて言えば、何となく上段の構えから八相の構えに替えてみようかな、という気にはさせられた。

いきなり余談だが、対話のなかで梅田氏がシリコンバレーの 『スターウォーズ』 信仰について触れられている。その部分を読みながら、『ハチミツとクローバー』 の森田を思い出した。羽海野チカ、なかなか勉強している(自分が不勉強なだけか)。これも本題とは関係ないが、冒頭の平野の序文が非常に美しいことにも感動した。この序文だけでも何度も読み返したくなる。平野啓一郎がいる限り、日本文学もあと半世紀は余裕で高みを維持できるだろう。

というわけで、一度、大雨の中長靴を履いて外出。貸本屋に新年の挨拶をしつつ、『わにとかげぎす』 の第2巻はありますか、と店長に聞いてみると、じつは仕入れていないという。うーむ。会員(30代以上が多いらしい)にはあまり人気がないらしい。そんなばかなことがあるものか。30分間だけ時間をもらって、古谷実がいかに天才であるかを語らせてもらう。やがて店長は、どこからか 『シガテラ』 の第2巻を持ってきて、今日のところはこれで、と袖の下へ通してきた。うーむ。読んでなかった。まあ、いいか。

いつしか雨が止んで、濡れた傘を振り回しながら帰宅。また 『ウェブ人間論』 を黙々と読む。第3章までの間に現状を確認しつつ相矢倉に構えたという感じで、いよいよ第4章で二人の意見が鋭く刃を煌かせ始める。理系と文系を真面目に議論させるとこうなるのか、という点からも興味深い対話になっているわけだが、梅田氏はインターネットは道具だと言い切り、平野氏はもうひとつの社会だと見ているようで、現実世界との関わり方をそれぞれに模索しつつ互いに焦点を合わせていく感じ。なにしろ 「教養とは何か」 という点からして、双方の認識は微妙に異なっているようで面白い。

あくまでもイメージなのだが、理科系の人は、考え方さえ押さえておけばいくらでも演繹できるというような万能感が絶えず身の内にあって、その知恵こそを 「知」 と捉える傾向があるように思う。発芽の原理と四大さえあればいつでもジャングルが造れると半ば本気で考えているのが理科系で、それゆえに身軽で、新しいものに出会えば何でも部品化する準備が常にできている。インターネットも部品として捉えてしまった後は、インターフェースだけあれば充分とでもいうような構え方で利用しているのではないだろうか。

一方で文科系の場合は、記憶した情報が多ければ多いほど新たな視界が拓けていくような、帰納型の編集回路を常にフル稼動させているイメージがある。頭のなかの主記憶に常時に展開されている情報こそが真の 「知」 であって(おそらく文科系のスゴイ人の頭の主記憶装置は平凡なサラリーマンの数千倍の容量なのではないかと思われる)、会話の中に引用が多くなるのも文科系の宿命なのではないかと思う。そうした文科系のスタンスから見ても、インターネット上に置かれているだけの情報は決して 「知」 とはなり得ないわけだが、図書館として活用するにも心許ないため、専らインターネットを現象として捉えてみようとする傾向が強いのではないだろうか。あるいは逆に、知識と同化する必要からネットにハマる人も意外に文科系に多くその傾向が見られたりするかも知れないな。まあ、妄想か。

とにかくそうした背骨の違いから、理科系の梅田氏はインターネットを道具として使いこなせば現世に利益がもたらされると言いたいように見えるし、文科系の平野氏はインターネットの利用によって生まれる集合知のほうに興味を感じているように見える。いずれにしても、平野氏が5分類されたうちの第3種以下のブロガーの一人として興味深く読ませてもらった。夜中の2時半まで。