友人から聞いた話だが、先日、学校教育のあり方を問うようなテレビ番組があって、そのなかで、『雪がとけて○○になる』 という小学校の穴埋め問題に対する答えが、題材として取り上げられていたらしいのだが、○○の部分には例えば、”川”、”春”、”雲”、”ウサギ” など、児童たちからさまざまな声があがったにもかかわらず、授業では ”水” と答えなければ不正解にされてしまうのだそうだ。子供から想像力を奪うような画一教育は誤っているのではないか、と番組は問題提起したかったらしい。

この内容が事実だったとして、最初に湧いてくる疑問は 「何の授業だったのか」 ということである。これが詩や音楽の授業なら、雪がとけて川になって流れて行こうが、たちまち春めいてこようが、ウサギの白さと跳躍力をもって冬から春への連想を促し季節の連続性を象徴してみせようが、子供たちの想像の膨らむに任せるべきだろうが、もしも理科の授業だったとしたら、やはり ”水” が正解でなくてはならない。あるいは他の意見とも比較して、最も適切と思われる解答を探し出さなければならない。豊かな想像力とは正しい理解の積み重ねの上に生じるものである。常識があるからこそ非常識を語ることができるのだ、と筒井康隆も開き直っているではないか。

一部の情報を故意にふせて、紋切り型に当て嵌めて批判の材料とするやり方は発信局側の常套手段である。たとえ意識しようとしていまいと、情報は常に不完全なままで都合よく利用される宿命にある。いま書いているこの文章も、元ネタのテレビ番組のタイトルも明らかにせず、友人なる人物が本当に存在するかどうかも保証せずという状態で、対象と同じ卑劣さを自覚しながらも、平気でテレビ批判の真似事をしようとしているわけで、うーむ。まあ、いいか。かなり疑わしいわけで、まあ、いいか。とにかく、すべては常に受け止める側の冷静な判断に委ねられている。

そういえば、筒井康隆のエッセイにも似たような話があった。もう20年以上も昔の文章だったような気がする。”太陽が西から昇る” という文についての正誤を問う問題で、国語の文法の試験であるにもかかわらず、太陽は西からは昇らないからという理由で 「×」 が正解とされている例がある、というような内容だったと思う。理科の試験なら誤りかも知れないが、文法的には正しいのだから 「○」 であるべきなのに、これでは試験の狙い目がまるで逆になってしまっている。SF作家だからこそ余計に、こんな乱暴さを野放しにはしておけなかったに違いない。

いま笑いが求められているのか、真理が求められているのか、感動が求められているのか、空気を読むということが非常に高度かつ重要な技術であることを知りながら、学校ではなかなかそれを教えてはくれない。オレさまも普段は ”空気が読めない” というキャラクターをわざと背負っているわけだが、とかく行き過ぎるともはや空気を読もうとすることが赦されなくなってくるので注意が必要なわけだが(意味不明)、まあ、いいか。”雪がとけて春になる”という文章は○か×か、”太陽が西から昇る” という文章は○か×か、我々はその場の空気を適確に読んで、瞬時に正解を選びとらなければならないのである。

ところで、日本の算数教育では、2+8=(?) というように、演繹法で想像させる出題例が多いらしく、西欧では逆に (?)+8=10 というように、帰納法で推理させる出題例が多いらしい (これまた怪しいウワサ情報の登場) 。どちらも足し算の計算問題なのだが、しかし後者は本質としては引き算ではなかろうかと思ったりもしつつ、あるいはこれは東洋と西洋のものの考え方の違いを知るための格好のサンプルなのではないかと思ったりもしつつ、しかし実は後者のような問題が出題された場合、日本の子供たちはもっとも厳しくかつ柔軟な解答を要求されるに違いないと思うのである。

わが国の健全な小学生の場合は ”「(?)+8=10」の(?)に入るものを答えなさい” という問いを前に、まず学校の先生に対しては 「もちろん ”2” ですがそれが何か?」 と用意しておいた伊達メガネの縁を押し上げつつ即答して得点を稼ぎ、好きな女の子の前では 「”2”であるとは限らない……」 とひたすら窓の外を見つめ苦悩する背中を見せて彼女の心をときめかせ、また別の好きな女の子の前では 「そんなもの ”10−8”と書き込んでしまえばいいのさ」 と狡猾なワルを装ってセックスアピールを強調し、いじめっ子の前では 「たぶん3くらいだと思うけれどよく分からない」 となるべく相手を刺激しないように神経を削り、大阪から来た叔父さんに宿題をみてもらうときには、”き・も・ち”、とマスのなかに小さく書き込みつつ 「これで充分やろ」 と額の汗を拭う仕草をしながら台所へカルピスを取りに行く、そのくらいの解答例は普通に使い分けているはずだ。