妻を連れて、練馬へ狂言を観にいく。リニューアルした練馬文化センターこけら落としの公演らしい。どうやら野村万作練馬区在住なのだそうである。練馬区はなかなか文化人が多い。

今日の演目の中心は 『三番叟』 というやつで、これはこけら落としとはいえ、エラいものを持ってきたという感じである。たしかにこれなら狂言方だけによる演目でも能楽的な緊張感を損なわずに楽しめそうだが、能楽のなかでも殊のほか特別扱いされているのが 『翁』 で、「三番叟」 はその 「翁」 において狂言方が演じる舞のことである。白州正子の 『梅若実聞書』 のなかにも解説されているが、「翁」 をやるときは、数日前から女人を退け精進潔斎、檜舞台には切り火をしてから臨み、さて舞い始めれば、まかり間違っても誤ってはならぬ、舞い誤ることは世に大変不吉なことであるからよくよく心して舞えよといわれるような代物である。こちらまで緊張するわ。

舞台が始まる前に野村萬斎がこんにちわ〜と現れて、今日の演目について演者からみた細かい注釈を加えてくれた。マイクを片手にゆうに20分は喋ったに違いない。なかなか話もうまい人である。興味深かったのは、”跳ぶ” ときの心得について。バレエなら少しでも高く上のほうに向かう気持で飛ぶのだろうが、狂言の場合は下に落ちることを意識して跳ぶのだそうである。う〜ん。まさしく、そういう話が聞きたかった。

野村萬斎の解説の後、囃子方の調子合わせを経て、切り火を打って開演である。三番叟は父・野村万作が務める。通常の曲の場合とは違って、小鼓が3人も出てきました。なかなか壮観。萬斎の解説によれば、たいがいの曲の囃子は8拍子なのだそうで、そんな解説を聞かされるだけでビックリなのだが、さらに 『翁』 の場合はこれが4拍子なのだそうである。ロックとジャズの違いであるか。五穀豊穣を祈願するステップは唐突にトンパントンパンはじまって、三番叟の揉み出しによりシンコペーションが生じ、躍動感溢れるリズムが巻き上がり再び舞い手の魂を揺さぶる。いやー、とか叫んで、は、とか答えて、トンパントンパン、七十歳を過ぎた野村万作が大地を踏み固めていく。抜き足と差し足の鋭さよ、頭の動きの素早さよ、小柄な老人がきびきびと動きながら奇声を発する姿を見るのは何とも小気味の良いものである。オレさまはたちまちこの老人の虜になった。

前半の入念な“揉ノ段”が終わると、次に舞い手は面をつけ、鈴を手にして、“鈴ノ段” が始まる。囃子にあわせて鈴をしゃんしゃんやるのは、種を蒔く仕草を表しているらしい。はじめはゆっくりと種を蒔きます。最初のうち、鈴の音と囃子のタイミングが微妙にずれるのが気になって、さては老体に応えてきたかとか、狂言師の体内リズムは宿命的にスピード感を求めてしまうのだとか、いろいろ下衆な勘繰りをしそうになったが、妻によれば日本舞踊などでもわざと囃子と足拍子のタイミングをずらすことがあるそうなので、あるいは意図的にそうしたものだったのに違いない。少しずつ種蒔きのテンポが上がるにつれ、鈴の音と囃子と笛のタイミングが一致するようになって行くのを肌で感じながら、そのことは徐々に確信へと変わっていった。やがて舞台は大きなうねりを伴って、芽が吹き、苗が伸び、あるいは幹が太り、若葉が繁るようにして、大地の気が天に繋がり、不協和音はいつしか完全調和へと昇華し、そしてふいに静寂に還るのだった。うーむ。

うーむー。

15分間の休憩。今日のもう一つの演目は 『鬮罪人』 というやつで、野村萬斎が太郎冠者を務める。『翁』 から一転、会場もリラックスしたムードで狂言を楽しむ様子となったが、オレさまは遠巻きに舞台を眺めながら、野村萬斎のさらなる可能性について考えていた。体の大きな現代人には、いまの桧舞台は少し狭いのではないだろうか。台詞や節まわしには多少の現代的なアレンジを加える事があるのかも知れないが、舞台の大きさはそうそう変えられないのに違いない。伝統を守り育てていくということは、いろいろな形の困難を乗り越えなくてはならないのである。うーむ。終盤、太郎冠者が鬼に扮したところで短い舞いが観られた。心地よさを覚えつつ、野村萬斎の心中に思いを廻らせてみたりする。

やや興奮気味に帰宅して、つい、『陰陽師Ⅱ』 のビデオなど借りてきて観てしまった。
観てしまったぞ、ひろまさ。