さすがに職場はのんびりしていた。昨日よりも増して休暇をとる人が多かった。昼休みには、ファイナルファンタジーガンダムばかりがテリトリーではないO田女史と、百人一首など暗誦し合ったりしながら時間を潰す。しづこころなく花の散るらむですよ、などとO田女史は腕を組んで窓の外のさらに遠くのほうを眺めたりしていた。その後も、定時まで無事にやり過ごし、何も起こらぬうちにと慌しく退社する。

時間に余裕があったので、帰り道の途中で池袋のLIBROに寄ってみる。寒い。なぜこんなに空調の設定温度が低いのだ。暑いよりはましだがなどと自分を説得しつつガタガタ震えながら文庫を漁る。

オレさまはどうやら書籍に関しては鼻が利くほうらしい。ふと角川文庫の 『仏教の思想1』 を手にとってみたら、釈迦とイエスソクラテスの死の違いを述べるために、梅原猛が 『パイドン』 に関する解説を数ページに亘って展開しているのを偶然発見した。実に運が良いと思ってつい買ってしまったのだが、いったいいつ読むつもりか。

一冊買ってしまうと、二冊も三冊も同じである。他にも岩波文庫一冊と講談社学術文庫二冊を購入。それにしても講談社の文庫はなぜこんなに高いのか。わずか四冊の文庫に三千円も払ってしまった。○| ̄|_

まあ、いいか。
高校時代の同級生でへビーメタルに傾倒していたU君は、よく遅刻してきた言い分けに、


「ヘビメタは走らない」


たとえ横断歩道の信号が点滅しても、という名言を残した。『饗宴』 や 『プルタルコス英雄伝』 にもあるとおり、ソクラテスはデリオンの戦に一兵卒として参加し、味方のアテナイ軍が大敗して壊走したときも、「傲然たる歩調で目を四方に配りながら」 悠々闊歩していたそうだが、案外、ヘビメタのU君と同じような精神構造をしていただけなのかも知れない。


「フィロソフィヤは走らない」


かっこいい。
ちなみに、philosophia という言葉を ”哲学”と訳してしまうよりも、そのままフィロソフィア、あるいは、フィロソフィ ”ヤ” と、ベタに読んだほうが、かえって当時の愛智精神 (いま創った単語) が伝わりやすいように思う。現代の ”哲学” という言葉のイメージは、少なくともオレさまの中では、ギリシヤ時代のものからだいぶ遠くに離れてしまっている。実際のところ 「へイ、フィロソフィしてるかい?」 というのが、ソクラテス時代のナウなヤングの合言葉だったに違いないのだ。

パイドン』 の終章で、今わの際のソクラテスに向かって、友人のクリトンが 「どんな風に君を埋葬しようか」 と最後に相談すると、「僕の ”体”を埋葬すると言いたまえ」 とやや神経質にソクラテスが訂正するシーンがある。あのね肉体は滅びてもね、僕という魂は不死で不滅なの、さっきから長々と時間をかけて説明してきたのに全然分かってないじゃんか、という感じである。


「いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ」(『パイドン岩田靖夫訳)


ソクラテスの死については、いくらかプラトンの演出も加えられているようだが、ここの会話の部分には妙なリアリズムがある。フィロソフィヤのためなら、たとえ戦争だろうが、裁判だろうが、死ぬことをも恐れぬ男だったことは疑いないが、死んだ後に自分に何が起きるのか、さすがにソクラテス自身も自信が持てなかったのだろう。周囲の者たちにとってはなおのことである。勇敢なソクラテス。彼に叱咤されながら号泣する友人たちのなかに、たしかにオレさまの姿もあったのである。