M村君に自転車おじさんの話をする。
もしもオレさまが歴史に名を残すような人物だったとしたら、伝記作家はこの自転車
おじさんとオレさまとの出会いに、貴重な1章を割かずにおかれないだろう。さらに、
後世の天才画家たちは、こぞってこの場面をモチーフに沢山の名画を描かずには
いられないだろう。かつて、そういう神秘的な出会いがあったのである。

というわけで、当時の様子を、オレさまの旅行日記から抜粋して以下に転記してみる。
その日、オレさまと妻とは、元箱根へ一泊旅行に出かけていた。自転車おじさん
(堀越進一さんという)と出会ったのは、その帰り道、早雲山から強羅へ下っていく
ケーブルカーのなかでのことだった。時は、1998年3月14日(土)、オレさまが
インターネットで日記を公開し始めるわずか7ヶ月前の出来事である。

−以下、オレさまの古い旅行日記より抜粋−


 1998年3月14日(土)晴れときどき曇り

……(省略)……
 早雲山に着いたとき、ちょうど強羅行きのケーブルカーが到着したところだった。
昼食にしようかどうしようかと悩んだが、20分間隔のケーブルカーなので、
乗れるうちに乗ってしまおうということになった。ケーブルカーの到着するところを
バックに老人たちがポーズをとっている。その前で、まだ、まだ、とカメラを構えて
いるのがさっきの大涌谷のおじさんだ、と妻が教えてくれた。
 ケーブルカーは山を降りていく。前が下だ。オレはケーブルカーの線路がまっすぐ
上に伸びている様子をカメラにおさめたくて、一番後ろに座ることにした。後ろの
座席を狙ったのは3人だけだった。オレたち夫婦と、例の老人だ。最後尾の座席は3つ。
二人用席と一人用席だったので、老人は二人用席をオレたちに譲ってくれた。
早速、ケーブルカーの線路をバックに妻の顔を撮ろうとカメラを構えたら、老人が、
せっかくだから二人を撮ってあげよう、とオレからカメラを取り上げた。
こんな線路じゃつまらん、山をバックにしてあげよう、そうやって撮ってくれたので
礼を述べたのだが、さて、線路を撮りにくくなってしまったぞ。カメラを受け取って、
しばらく考えていると、老人はやにわに赤いビニールのハガキシートを取り出して、
オレたちに見せた。「わたしはこういうことをやっています」 壮大なカスケード山脈
を背に自転車に乗った男性が写真に写っている年賀状だった。
 差出人の名前は、堀越進一と印刷されている。昭和56年の年賀状。これがわたしです。
数十枚の年賀状にはいろいろな場所を背に自転車と堀越氏が写っている。自転車で遠出
する事が趣味で、毎年出かけている。いま76歳で、胃ガンを切ったこともある。この間
テレビ東京でわたしの特集をやったのを、さっき大涌谷の女の子たちが知っていたので、
こんな話をしました……。
 オレは頭上の線路がいよいよ伸びていくのを見つめながら、老人の話が早く終わる
のを待っていた。老人は15歳の頃から60年間、自転車での旅を続けてきたらしい。
彼が女子大生に聞かせた話とはこうだった。
 『あなたが道で素敵なお婆さんを見たら聞いてごらんなさい。そのひとはきっと、
1つだけこうと決めた何かを実行している。例えば、朝、ひとに会ったら必ずきちんと
おはようございます、と挨拶することだとか、そんな簡単なことでも良いのだ。
そして、それを5年、10年、といわず20年、30年と続けている。そういうこと
を持たないと、人間は50歳を過ぎてからさっぱりダメになってしまう。人生はたった
一度きりしかないということをよく考えなさい』
 つばきが何度も顔に飛んできた。老人はずっと語り続けた。服部都計店の関係会社
に勤めてきたが、旅行に出るときは一ヶ月会社を休むというのに、社長や上司は
小遣いまでくれた。遊びというものを知っていなければ良い仕事もできない。
 老人の指先は変形していた。自転車を洗ってばかりいるからだという。
……(省略)……


最後のフィルムを、この自転車おじさんが使ってしまったため、彼の姿を写真におさめる
ことはできなかったが、いろいろと思い悩む時期だったこともあって、強羅に着いてすぐに
彼の言葉を細かくメモに書き留めた。いろいろと思い悩む時期だったこともあって、
十戒を授けられたモーセの如くひどく興奮したことを、つい昨日のことのように思い出す。

あれから8年である。
人生は一度きりしかないというのに、インターネットばかりやっていて良いのだろうか。
この堀越進一さんとは、その後、再会する機会には恵まれていないが、
最近インターネットで検索してみたら、彼の名前がヒットすることが分った。
うーむ。