浅草駅で 「時刻表を買おう」 と提案したら、そんなもの絶対に要らない、
と妻に却下されたので、スキを盗んでこっそり売店で買ってやったら、
数ページ流し読んだだけで今回の旅行では不要なのだということが分かった。
500円の損失。しかも、カサばるから荷物としてもやっかい者で、道中さらに
目に見えぬ形での損失額は増える一方と思われる。こんなときアムロなら、
買ったばかりの時刻表でも潔く道端に放り投げたに違いない。
そういうわけで、コロンブスでもしない大後悔から旅は始まったのである。

夫婦がともに素速い電車を苦手とするため、特急電車は避けて、1時間に1本
しかない快速電車に乗ることにした。東武日光駅までは約2時間で着く予定。
妻が金八先生のことなどぶつぶつ言いながら、窓外の町並みを眺めている間、
自分は 『驚異の百科事典男 −世界一頭のいい人間になる!−』 を読み始める。
なかなか面白いので、妻が昼寝をしはじめても、電車が利根川を渉るときも、
黙々と読みつづけていた。

そうして、10時20分浅草発の快速電車は、12時30分頃に東武日光駅に着いた。
土地の名は日光だけれども、小雨が舞っているようなどんよりした天気。
霧降方面へ歩きながら 「なるほど霧降りだ」 と意味も無く一人合点する。

とりあえず、木彫りの里方面まで味気ない歩道をしばらく歩いて、
【日光ビール】 に到着。そこで生ビールを飲んでみた。グラスで 525円 。
とても美味しい。じつに美味しい。旅の途中でなければ、ここでゆっくり腰を
落ち着けて飲み明かしたいくらいである。傘は持っていないけれども、
楽しい旅行になりそうだと、夫婦でにわかにウキウキする。

ビールは1杯だけで我慢して、再び坂道を降りて、坂の途中にある空き家
みたいな 【ふるさとの家】 に入ってみる。17年前にはどこかで使われて
いて人が住んでいたという築200年くらいの旧家を、わざわざ移築してきた
ものだそうだ。恐る恐る土間に足を踏み入れたとたんに、柱の影から留守居
おばさんがぬーっと出てきた。心臓が凍りそうになる。

おばさんに促されるままに座敷にあがってみる。囲炉裏の端の家長が座るべき
場所を指さして、座ってみろ、という。お茶が出てくる。
そのまま、おばさんの話し相手をさせられる。

おばさんは毎年4月〜10月のあいだ、通いでこの家の留守番兼案内役の
仕事をしているらしい。朝から夕方まで一人でこの空家に居て、気まぐれな
観光客が迷い込んで来るのを待っているのだそうだ。自宅は市街にあって、
”毎日が日曜日” のご主人が自動車で毎朝送ってきてくれるらしい。ならば、
いっしょに留守番すれば良いのではないかというと、居れば居たで、煩わしい
ものなのだそうだ。夫婦とは不思議なものだ。しかも、おばさんは、今年は、
まだ2、3日しか休んでいないのだという。たいがいのアルバイトは、この
建物の中で一人でいることを恐がってすぐにやめてしまうらしい。
おばさんも、最初の1年は淋しくて嫌だったと告白していたが、そういうわけで
”毎日が日曜日” の亭主を持つおばさんの毎日は月月火水木金金なのである。

さあそろそろ、と暇乞いをしようとすると、絶妙なタイミングでお茶のお代わり
を注いでくれる。逃げられる気がしない。こういうときの妻はじつに従順で、
相手の話に相槌を打ちながら、おばさんの日常をどこまでも聞き出そうと務める。
おかげで盆栽や、外国人観光客や、修学旅行の生徒達の話まで聞くことができた。
その間オレさまは、雪山のカマクラに閉じ込められる怪談を思い出しながら、
「ちょっと買い物に行って来るから」 と、おばさんが言い出しやしないかと、
内心ヒヤヒヤしていたのだった。

そのうちに、地元の人と思われる別の客が、ワンワン吠える犬を連れてやって
きたので、チャンスの神様の場合は前髪は長いが後頭部は薄いという格言を
思い出しながら肘で妻を促し、ごちそうさまでしたーと言って、その場を速やかに
離脱することに成功したのである。もしあのままだったら、間違いなくホテルの
夕食を食べそこねていたに違いない。

山を降り、日光市街をブラブラ歩いて、東照宮付近にあるはずの宿泊地を目指す。
赤トンボがやけにたくさん飛んでいる。しかも日光の赤トンボはとても人懐こい。
妻の頭の上で羽根を休めたり、路面にうずくまって足元から覗き込んだりする。
昔の人が、この国を秋津島と呼んだ気持ちがなんとなく判るような気がした。
我々の本来の心のパートナーは、犬ではなくてトンボだったのではないか。

神橋あたりまできて、ようやく日光に来た気分になる。自動車多い。
金谷ホテルでコーヒーを飲んでみる。そういうことがしてみたい年頃なのだ。
ケーキセットの値段が1,320円だったが、おどおどしていると馬鹿にされ
そうなので、堂々と2つ注文してやった。それからソファにふんぞりかえる。
のんびり食べて、会計を済ませてホテルを出る。ボーイが送ってくれた。

自分達が泊まる宿は、『日光千姫物語』 とかいう新しいホテルだった。
さらに川沿いに坂を上っていかねばならぬが、神橋から5分も歩かないところ
にそれはあった。夕方5時過ぎにチェックインして、重い時刻表の入った荷物を
下ろしたのち、少しだけホテルの周囲を散歩した。明日の下見に東照宮付近へも
行ってみた。すでに入館時刻は過ぎてしまっていて、人影も疎らな参道は、
杉の木立の淡い影がひんやりとして気持ちよかった。

ホテルに戻り、温泉につかって、夕食の献立に大袈裟に反応してみたりする。
その後、布団に入って、NHKで 『新版酒餅合戦』 を観て笑い転げているうちに
眠ってしまった。