図書館の帰りに駅前の書店に寄ったら、新潮文庫の9月の新刊が沢山積まれていた。
その一角を眺めてから、とうとうこのときが来たか、と目を閉じてみればいくつも
の鮮やかな場面が懐かしい歌に包まれ色とりどりに蘇る。
ローマ人の物語』 (塩野七生著・文庫版)の第17巻〜第20巻の4冊が、
また新たにまとめて刊行されたのである。

自宅の書棚には、『ローマ人の物語』の文庫版・第14巻がある。
昨年末に第13巻を読み終えたまま、その先を読む気がせずに放ってあるものだ。
このまま読まないでいたのではカエサルから重たいバトンを手渡されたままの
アウグストゥスが少し可愛そうに思われてきて、新刊が出てしまったことを機に、
そろそろ続きを読んでやらねばならぬかと中途半端に覚悟などする。

ローマ史全体の長さから推測すると、まだ半分も進んでいないという実態だが、
ここまで読み進めたまでに、ローマは小さな集落から → 王政 → 共和政と、
国家の運用体制を変えながら地中海全域に版図を拡げてきた。

オレさまの印象では、ローマ人とは、

 ・文明人であることを強く意識している
 ・インフラストラクチャの整備が大好きである
 ・何でもマニュアル化する
 ・法を重んじる
 ・価値観の多様性を認める

まだ他にもありそうだが、このローマ式のやり方で戦争(基本的に専守防衛
をすれば常に勝つし、戦後処理もじつに鮮やかで理に適っている。二千年以上も
昔にこんな連中がいたことには驚嘆させらるばかりで、とにかく現代でも通用
する理想的な国家のあり方なのではないかという気さえしてくる。
ただし、あくまでも共和制時代までしか知らない範囲での印象であるが。

このローマ人の代表とも言える存在が、ユリウス・カエサルなわけだが、
この稀代の読書家で女たらしで借金王のカエサルが果たした役割は、ローマを
帝政に導くことだった。しかし、その志半ばにして文庫版の第12巻あたりで
”過激な保守派” に惨殺され、第13巻は事後に対する事態収拾の状況にだけ
ページが費やされる。クレオパトラなんかも出てきて、この辺のことはオレさま
も映画で観てだいたいは知っていたが、事情をよく知らずに観ていた映画のとき
とは大違いの印象で、カエサルが死んだことは、例えば織田信長が死んだこと
くらいに人類史上にとっての大きな損失だったように思う。

とにかく、オレさまの手元には、『ローマ人の物語』 第14巻がある。表題は、
パクス・ロマーナ [上] 』 だ。ここから3冊は、カエサルの後を継いだ若き
初代皇帝アウグストゥスが、”パクス・ロマーナ”と呼ばれる、以後200年も
続く地中海世界の平和な時代の基盤を築いていく過程が描かれていくはずだ。

ところが、ここでオレさまは 「はた」 と立ち止まりたくなる。
カエサルが暗殺されたのが BC 33 年、アウグストゥスが帝位に就くのが BC 27年、
このわずか数十年後には、イエス・キリストが生誕するはずではなかったか。

たったいま、厳しい戒律などなくとも人間は合理精神をもって立派に文明人
としてやっていけるのだということをローマ人が証明してみせたところへ、
さあこれから人類の奇跡と呼ばれる輝かしき ”パクス・ロマーナ” の時代が
始まろうという、そういう気分のところへ 「なんで今更」 と感じてしまう。

キリスト教徒” という言葉は、なぜだかオレさまの胸に暗い影を落とす。
使い古された揚げ足取りかも知れないが、唯一絶対神を崇める人々の抵抗によっ
て文明が停滞した例を挙げればきりがないわけで、女性とみれば魔女だと断言し、
太陽が地球の周囲を回っていることを疑わず、野蛮な土着の魔術だからとマテ茶
の飲用を禁止したり、クック諸島の神聖な踊りを破廉恥だからと止めさせたり、
進化論者の誕生日にバナナを贈ったり、クローン技術のニュースに卒倒したり、
およそローマ人のもつ気質とは大きくかけ離れている。

もともとキリスト教の母胎であるユダヤ教は、エジプトで働かされていた奴隷
たちが、モーセの指揮のもとに集団を組んでエジプトから逃亡したときに、
団結の源となった宗教であるといわれる。いわば被差別者の宗教であるという
見方もあって、ニーチェが ”ルサンチマン” と呼んだキリスト者独特の感情
も、こうした歴史的背景に根ざしているものなのかも知れない。

そのユダヤ教の救世主として、キリストがローマ世界に登場するわけである。
少なくともローマにとって、ひいてはヨーロッパ世界にとって、さらには全世界
にとって、キリストの登場は試練以外の何ものでもなかったのではないかと思う。
ローマが滅んだ理由には、このキリスト教を最終的に国教として受け容れたことと
深い関係があるのではなかろうかと、オレさまは踏んでいる。まだ踏んでいるだけ。

とはいえ、オレさまはキリスト自身を非難しようなどとは思ってはいないのだ。
むしろ日本人は、もっとキリストの言葉に耳を傾けるべきだとさえ思っている。
ただ、オレさまの性分として、キリスト教という価値観に便乗して、
単なるヒツジ、あるいは単なるオオカミ(罪人という意識をもつ者)であろうと
する一部の人々の、そうした大いなる怠慢にときどき腹を立ててしまうことが
あるのだ。

デカルトも、ニュートンも、アインシュタインだって神の名を口にするときは、
胸の前で十字を切ったに違いない。それでも彼らは、キリスト教的な価値観に
縛られずに新しい扉を開いた。ところが、唯一神教の信者のなかには、現在でも、
「人間が考える問題ではない」「人間が知らなくても神様が知っていれば良い」
「自分はすでに罪深いからもうどうでもいい」 こうした諦観を抱きつつ、
世界のさまざまな事柄について考えることを止めてしまっている人が多いのでは
ないだろうか。そうした姿勢は人間としての不幸以外の何ものでもないのではな
いかとオレさまは思うのである。ローマ人のことを想うたびに、そう思うのだ。

そういうわけで、再び 『ローマ人の物語』 を読み始めようと思った。
なぜキリスト教が生まれ、人々の間に広く受け入れられたのか、ローマが滅んだ
理由としてキリスト教と同化したことが考えられるのではないか、それはどの
ような場面から読み取れるか、そうした点に注意しながら読み進めたいと思う。
こんなふうに目的意識を持って読むことは楽しいことだ。

そう思いながら、その書店でまた一冊購入した。
『驚異の百科事典男 −世界一頭のいい人間になる!−』(A・J・ジェイコブズ)
邦題が失敗していると思うのだが、原題は ”THE KNOW-IT-ALL” である。
この人を見よ! といいたい。