朝6時起床。7時頃までマンガを読む。マンガを読み終えてから、
妻に借りた中国語のCDを再生して発音練習などする。
ニイ、シェン、チー、ハオ、マ? 

30分でぐったり疲れてしまい、気分転換にジョギングに出かけることにした。
ぐったり疲れながら30分後に戻ってきて、シャワーを浴びてから、音楽など聴いて
さらに30分ほど過ごす。妻は寝ている。起こすと怒られるので寝かせておく。

昼になる前にひっそりと実家へ向かい、室内の模様替え作業など手伝ってやる。
汗だくになったところでお茶も出やしない。とにかくやることを済ませて、
母に熱中症に気をつけるように言い聞かせて実家を去り、大泉学園の書店へ足を
伸ばして、予約しておいたハリーポッターを受け取る。予約特価2458円。
ハリーポッターの絵がついた紙袋に入っていて、なんだかちょっと気恥ずかしい。

地元の駅へ戻って、駅前で妻と待ち合わせ。
妻が現れるまで、先日から読みかけていた 『かもめのジョナサン』 を最後まで読む。
中学生のときに読んだきりだったが、久しぶりでもその印象に変わりない。
この短い小説は、やはり釈尊の覚醒とその継承の経典を想わせる。

それにしても、今更に気になるのが訳者の五木寛之が最後に書き添えた解説である。
彼はしきりに何かの違和感を唱えながら、ジョナサンをキリストあたりになぞらえよう
としていたが、この本が多数の若者に受け入れられた当時(1970年代初期)、北米で
ブームとなっていたヒッピームーブメントでは、仏教やインド哲学が重宝されていたと
聞くし、食欲と性欲が注意深く抑制された小説だと五木自身が指摘しているように、
ジョナサンの姿は明らかにブッダという存在を意識して描かれているように思う。

五木がそのことに気づかないはずはないのだが、大乗仏教に傾倒する彼自身としては、
自力本願の権化のようなカモメの世界を 「小乗」 として蔑みたかったのかも知れない
……と、ちょっと勘繰ってみたくなるが、彼が浄土真宗にのめり込むのは1981年以降の
ことだそうだから、当時は単純に失念していただけかも知れない。いや、逆に言えば、
かもめのジョナサン』 に違和感を覚えた彼だからこそ、後に浄土真宗にのめり込ん
だのだとも言えるのではないか。うーむ。とにかく、久しぶりに読んだ感想が、
訳者の解説への違和感だったりして、まあ、それなりに面白かったりもしたわけだが、

  ”正確な飛行は、われわれの本性を表現する一つの段階なのだ。
   われわれを制限するあらゆるものを、われわれは退けねばならん。”

こんなジョナサンの言葉には、何度でも微かな高揚感を覚えずにはいられない。
それはある種の安らぎにも似た、夕暮れの祇園精舎に響き渡る釈迦の肉声を聴くようだ。

じきに妻と合流して、いくつかのショウ・ウィンドウを物色した挙句に、ありきたりな
スパゲティ屋に落ち着き、そこで遅い昼食をとる。そしてそのまま、その店のドリンク
バーの助けを借りて、ときに口論にさえなる夫婦の会話は夕方まで続いた。

スパゲティ屋を出て、二人でスーパーマーケットで買い物をしてから帰る。
帰宅後、Y成君からのメールで、Y山さん指名のバルバロが4着に負けたことを知った。
やはりY山さんと4文字馬名の馬とは相性が悪いようだ。