大奥s

妻は朝から出かけた。義母と義妹と三人で箱根旅行である。
その一方でオレさまは自宅待機。洗濯物を干したり、ゴミを出したりなど、
修行僧としての厳しいお勤めを言いつけられており、午前中はそうした激務に命を削る。

東京4R。Y山さん指名のピサノダイチは1番人気だった。
デビュー戦では2番人気で5着に敗れて、今回が間隔を開けての2戦目である。
藤沢厩舎であることや、サンデーサイレンス産駒であることから1番人気に推される
のは当然のことであった。しかーも、デザーモが騎乗するのならなおさらだ。
ちなみにピサノダイチの母親はピサノガレーという良血馬で、6年前にY山さんが、
初めてPOGのドラフトを体験したときに3位で指名した牝馬なのだった。
ゆえにピサノダイチは、Y山さんとはエンもユカリも深い血統馬なのである。

オレさまは、ラジオの前で正座している。
本来ならば、ただの未勝利戦にこれほどまでに緊張する必要はないのだが、
実は昨日、アグネストレジャーとかいうY山さんの指名馬が突然に宅急便のごとく現れて、
さっさとデビュー勝ちを飾ってしまったことで、今期のY山さんの指名馬8頭のうち
7頭までが勝ちあがったことになり、残す1頭が今日のこのピサノダイチのみという、
非常に危険な事態に陥ってしまったのである。

悲しいことではあるがCOTには、「全馬勝ちあがりプレミア」 というものが存在する。
もしも指名馬の全頭がそれぞれ1勝以上を果たした場合には、
なんと、G3勝ち相当のボーナスポイントがPOに加算されるルールなのである。
誰がこんなルールを作ったのか!

そういうわけで、今日の東京4Rは、
昨日の新潟4Rが終了した直後にたちまち重賞競走に変貌してしまったのである。
不本意ながら正座してラジオを聴かざるを得ない状況なのである。
しかーも、デザーモがお腹をこわすとか、突然の大雨で競馬が中止になるとか、
何かそういう異変が起きない限り、あっさり勝ってしまいそうな雰囲気が、
すでにピサノダイチの周辺をふんわりふんわりと漂っているのであった。
そして事実その通り、あっさりと勝ってしまったのである。

ヤケクソでカップ麺に湯を注いで4分待つ。

午後は一旦、外出した。得意の散歩である。
ビデオ屋で中古ビデオを1本買う。『フレンチキス』 である。
棚の中に見つけたときは、「やった」 と思ったのだが、残念ながら日本語吹替版だった。
それでも買う。300円なら買わずにおれない。オレさまがこれまでに観たすべての映画の
なかで、最も愛している作品である。砂漠に持っていくなら、『フレンチキス』 と、
ビデオデッキと、自家発電装置と、水と、テントと、食料と、パソコンとかまあいろいろ。

とりあえず 『スーパー競馬』 が始まる頃には帰ってきてテレビを観る。
いま、風はY山さんのほうに吹いている。
COT関係では、レースパイロットライラプスオークスに出走するが、
いずれもY山さんの指名馬である。どちらも穴馬として一考したいタイプだろう。

オレさまとしては、シーザリオをどこまで信じられるかがキーポイントなのだったが、
馬というヤツには何度も騙されてきたように、そもそもが信用ならぬ存在なのである。
しかも相手が女ときては、なおさらだ。ぜんぜん安心できない。しかも、パドックを見て
あきれてしまうことにはディアデラノビアがめちゃくちゃ暴れておるではないか。
これがクラシックのパドックか。落ち着け。落ち着け、オレ。

オレさまは、テレビの前で正座している。
例えば、ディアデラノビアがゲートで暴れて、隣のライラプスの神経を逆撫でしたり
しないだろうか。それでもって、ライラプスが大きく出遅れたりしないだろうか。
さらにそれとは関係無しに、蛯名騎手が得意の出遅れ癖を発揮して、
レースパイロットまで出遅れたりしないだろうか。

ファンファーレとともに歓声があがる。
ディアデラノビアを買っているひとは気が気ではないだろうな、などと想いながら、
ふともう一度新聞に目を通してみると、シーザリオスペシャルウィーク産駒であることに
いまさら気がついてしまった。気が遠くなる。何故こんなに大切なことを見落としていたのか。
スペシャルウィーク産駒である。スペシャルウィーク産駒がG1を勝つなんて、ありえない。
想像できない。ああ、変な牝馬を信用してしまった。自分はどうかしていたのだ。

オレさまの焦燥をよそに、いともた易くゲートが開いた。
期待に背いてほぼ揃ったスタートだった。シーザリオは、リズム感悪く後方待機。
や、ややや、やや後ろ過ぎるのではないかと慌てる。
エイシンテンダーが逃げる。よしよしよしもしシーザリオがだめなら、キミが頑張れ。
レースパイロットは5、6番手の絶好のポジショニング。ライラプスはその少し後ろ。
シーザリオはそのまたずーっと後ろ。ああ、気が遠くなりそうなくらい後方だ。

3コーナーあたりから徐々にシーザリオが前を気にし始めたようで、仕掛けるそぶりを
見せている。ああもう遅すぎるくらいだと憤りながらも内心は少しほっとしたのだが、
それでもとにかく前にはまだまだたくさんの馬がいる。さっさと差してしまえ。

4コーナーを曲がっても、まだ相対位置としてはシーザリオは後方、
さあ、ここで神様の出番だ。神様、お願いです。久しぶりにあなたの力が必要です。
モーセにやってみせたときのように、シーザリオの前をパーッと開けてやって下さい。
パーッと馬群の海を切り開いて、彼女が脱出する道を明るく示してやって下さい。

そう祈りながら十字を切って手を合わせたら、すぐにシーザリオの前がぱっと開いた。
「ひらいた!」
と思わず声をあげてしまった。これでもう安心である。
先にディアデラノビアがディアデラ伸びたが、普通に競走すればどの馬よりもシーザリオが、
断然に速いのである。ほらほら、レースパイロットライラプスも止まってみえる。

オークスは、そういうわけで無事に終了した。
そういえば勝ったシーザリオは、プロトンというSS産駒の妹なのだが、そのプロトンも、
6年前にY山さんが1位で指名した馬だったな。さらに、2着だったエアメサイアは、
エアシェイディの妹なのだが、エアシェイディもY山さんが指名していた馬だな。
まあ、いいか。

スーパー競馬』 を観終わり、チャンネルを変えて女子ゴルフを見て泣いたのち、
テレビを消して、ジョギングでもしようと思ったら夕立ち。仕方なく 『ブッダ』 を読む。

ふと気がついて、暗くならないうちに風呂に入ることにする。
例えば、頭を洗っているときに、誰かの視線を感じたりするのが恐いからだ。
眼を閉じているときだけ、誰かがじーっと睨んでいたりするような気がして、
恐ろしいからなのである。

NHKの 『義経』 を見ながらひとりで夕食。
妻が用意しておいてくれたブリの煮付け、納豆、ごはん。ビールは飲まない。

オレさまは、『義経』 の配役にかねてから不満を抱いているのだが、
配役として気に入っているヤツが3人だけいる。まず一人は後白河法皇平幹二郎
これは素晴らしい。ハマリ役。次には、源行家大杉漣。完璧にイメージが重なっ
ていてよく見つけたものだと感心する。そして、平宗盛鶴見辰吾。これは単に、
オレさまが鶴見辰吾という役者を好きなだけなのだが、それが平宗盛という困り者の
役を演じるという事が何ともいえず嬉しいのだ。

他にも、源頼朝中井貴一)や源三位頼政丹波哲郎)なども悪くないが、
とにかく、観るたびに 「ちょっとなあ」 と感じるのが、清盛入道や、弁慶や、
義経だったりするのである。本来ならば、肩入れしたくなるべき登場人物達の
ほうに、配役的な不満があって、イマイチ感情移入できないのである。
オレさまとしては、義経中村七之助あたりにやらせてほしかった。

夜は、寝室にバリケードを作成し、早めに寝床に入る。
すぐに妻から電話があった。声を聞いてほっとする。もう何十年も会っていない
ような気がする。元箱根で雨に降られたが、楽しくやっているという。
こちらも無事だから、安心してゆっくりしてきなさいと伝えてやる。

今夜は電灯をつけたまま眠るつもりである。すでに雨と風の音が不安をかきたてる。
仏教の本を数行読んでは眠くなり、何者かの視線を感じては、はっと目が覚める。
その繰り返し。

何度目かに眼が覚めたときには、雨が止んで、恐ろしいほどの無音と、
暑苦しさが寝室の内を支配していた。窓を明けると、笑い声が聞こえてきた。
刻限は判らぬが、そうとうな深夜であると思われた。
生ぬるい風が吹き込んできたので、恐くなって窓を閉めた。

次に眼が覚めたときには、すでに外が白み始めていた。
とりあえず、寝室の電気を消して、また寝る。