昨夜は酔って早く寝てしまったおかげで、今朝は6時半に目が覚めた。
妻はそれよりもさらに早く起きて、朝食の支度をしていた。
義妹夫婦も目を覚ましてきて、8時前には朝食を摂り終えていた。

とりあえずコーヒーなど飲みながら、ヒロ君と一緒に 『仮面ライダー響鬼』 を観る。
彼はフィギアなんかも集めている。プロレスとフィギア。なかなかコアなキャラクターだ。
響鬼ライダーはなかなか格好良い。イブキとかいう仲間のライダーもクールだ。
全体が森林や湖水と溶け合っている感じがして、殺伐としていないところが良い。

9時には4人で家を出た。
電車に乗って池袋まで出て、義妹夫婦と別れる。
別につられて出てきてしまったわけではない。新聞屋にもらったチケットがあったので、
横山大観展』 を観に、日本橋三越へ行く予定だったのである。

最終日が近づいているせいか、会場はなかなか混雑していた。
少々うんざりしかけたが、落ち着いて気を取り直して大観と向かい合ってみることにする。

たしかに横山大観は近代日本絵画史上屈指の巨匠である。
彼の名を知らぬものは少ない。オレさまもその画を好きかと聞かれたら、躊躇なく好きだと答える。
例えば、今回の目玉である 『紅葉』 のように大きな画面にダイナミックな構図と鮮やかな配色の、
優美で雄大な作品ももちろん好きだし、『春風秋雨』 の静かで絢爛な雰囲気もかなり好きだが、
『龍膽』 のような小品を前にすると、さすがに 「墨に五彩あり」 と言っただけのことはあるよと、
ほとほと感じ入ってしまうのである。カナヘビがね。これがかわいいの。このチョロっとした感じがね。
そういう意味では、彩色の 『鶉』 なんかも良いな。ウズラがとても暢気でよい。

会場の一角に 「画は人なり」 という大観の言葉を紹介したパネルが置かれていた。
いかにも岡倉天心あたりが吐きそうな台詞である。大観は酒飲みでも知られているが、
それなども天心に 「一升くらい飲めねば遺憾」 と言われたのがきっかけだったらしい。
以来大観は、一升酒を毎日、一生飲み続けたというのだから呆れてしまう。
なんでもかんでも岡倉天心の影響をうけるところは、名作アニメ 『フランダースの犬
に出てくる弟ポールが、兄ジョルジュの言葉尻をいちいち真似するかのごとくである。

それにしても 「画は人なり」 とはどういうことか。
じつは、別の一角にも同じようなパネルがあって、そこには 「富士は人なり」 という
もう一つの言葉が掲げられていたわけだが(笑)、とにかくその 「人なり」 シリーズは、
たいがいの日本人にとっては分かり易いものではないだろうか。
試みに 「料理は人なり」 と口ずさんでみるがいい。うーむなるほどねえ、と意味もなく
頷いてしまうだろう。「馬券は人なり」 と口ずさんでみれば、確かにそのとおりだったよ、
と無念の涙がこみあげてくるではないか。

日本人には何でも精神の問題に転換してしまう性質がある。ある意味で空想家の集団なのだと思う。
襖だの三十一文字だの小さな空間や記号の内に広大な地平を与える作業は、
日本人の最も得意とする分野だろう。目に見えないものを心で観、聞こえないものを心で聴くことで、
孤島での退屈を補ってきたのである。

しかし西洋画から転向した川端龍子などは、むしろ絵師としての技術の鍛錬ばかりを重視して、
できるだけ沢山の写生をするように弟子の牧進などには指導していたようだ。
オレさまも、そうした職人のシンプルな姿勢にこそ人間の崇高さを感じるし、
ひたすら技術を研くことこそが優れた作品を現出するための近道であると考えるのは自然なことである。

例えば、能は芸術であっても、そのシテは芸術家であってはならないと言われる。
能の専門家に必要とされるものは、

 「つきるこのとない忍耐と、お能に対する絶対の信頼と、
  技術家の位置にあまんずるだけの謙遜と、それから体力であります」
                             (白州正子『お能』)

こういう言葉を聞かされれば、それでこそだろうと観念してしまう。
しかし、そうした技術指向の川端龍子や牧進の作品でも、
写真のように正確かつ細密に描きこんだ絵は一枚もない(んじゃないかな)。

「画は人なり」 とはすなわち、描く者の心の目は何を観ているか、心の耳は何を聴いているか、
それによって描出されるものが自ずと違ってくるのだということが言いたいのではないかと思う。
現代にあっては、あまりにベタで引用するには少々抵抗を感じる言葉だけれどな。

だから、むしろまた別の一角に、「牡丹を品よく描くのは難しい」 などというパネルを見つけると、
「おっ」 と身を乗り出してしまう。
そういうときには 「やはり大観は絵かきなのだなあ」と思って嬉しくなる。
その横に掲げられた 『牡丹』 という作品には、金色の蕊に結わかれた深紫色の花弁の束が優雅に花開いていた。

まあ、しかしあれだ。
おまへは画家の言葉なんかより、もっとよく作品を見ろよと。
じつはおまへ自身が作品の価値を作者の精神のなかに見出そうとしてゐるのぢゃないかと。
まあ、ちょっと気が付いた次第ではあるが。まあ、いいか。

象徴と省略を指向する日本画と、微に入り細にわたり描きこむ西洋画。
精神性を重視する日本画と、本物らしさを重視する西洋画。

日本画家というのは、本朝に数多ある職種のなかでも最も特異な存在ではないだろうか。
オレさまの脳内では日本画家もはや芸術家ですらなく、むしろ宗教家に近いイメージである。
彼らの描き出す簡潔な空間は、決して何かを語りかけてこようとはしないにもかかわらず、
しかしその前に立つ我々の心を清らかに洗い流すのだ。

会場を出ると、いつものように絵葉書やらカタログを並べた売店が待っていた。
カタログは買っておこうと思ったのだが、少し考えてやめることにした。重いし、家に置く余地もない。
代わりに絵葉書を3枚だけ購入。妻に見せると、彼女も絵葉書を3枚購入したというので、
互いの図柄を確認してみると、見事に重複が避けられていた。どうやら夫婦とは補い合うものらしい。

三越百貨店を出て、銀座まで歩いてみることにする。とても良い天気。
日本橋のうえで、何かのお祭りに出くわした。発泡酒が2本で100円だというので、
100円を渡して2本のスチール缶を受け取り、橋のたもとの階段に腰を下ろして夫婦で乾杯する。
そういう家族連れが他にもたくさん階段付近に集まっていた。お祭りの余興で和太鼓が鳴っていたり、
1本だけあった桜の木が満開だったりするので、すっかり良い気分で長居してしまった。

午後2時を過ぎた頃に、立ち上がってまた歩き始めた。銀座をやりすごし、日比谷まで歩いて昼食。
二人でパスタのランチセットを食べた。それからまた日比谷公園のほうへ歩き、日比谷公園を一周し、
まだ歩けそうな気がしたので、大手町まで歩くことにする。左手に堀池を眺めながら、世間話などしながら、
ぶらぶら歩く。大手町まで来てしまうと、さらに神保町まで歩きたくなる。けっきょく水道橋まで歩いた。
ここで宝生能楽堂の所在を確認する。駅から近かったので、今度観に来てみようと思う。

ちょうどメインレースが終わる時間だったが、後楽園の駅はそれほど混雑していなかった。
すでに陽が傾きはじめ、少し肌寒くも感じるようになってきたので、
放浪の旅はここまでにして電車に乗って帰ってくる。