少し残業して帰る。遠藤周作の『海と毒薬』を読み始める。夜遅く、思いがけないメールに気がついて、十数年ぶり(たぶん)にoscarと電話で会話をする。”萩尾望都”のキーワードに反応したらしい。就寝前に『海と毒薬』を読む気にはなれなかったので、代わりに山田風太郎の『戦中派不戦日記』を拾い読みしたり。『海と毒薬』の勝呂ではないが、終戦に向かおうとしている昭和二十年、山田風太郎もまた満二十三歳の医学生だった。ところどころにB29三百機来襲とかP51五百機来襲とか。とりあえず八月八日(水)晴の日には、広島空襲について短くメモを残している。

”来襲せる敵は数機とあり。百機五百機数千機来襲するも、その発表は各地方軍管区に委せて黙せし大本営が、今次少数機の攻撃を愕然として報ぜしは、敵が新型爆弾を使用せるによる。「相当の損害あり」といい「威力侮るべからざるものあり」ともいう。かつてなき表現なり。いかなるものなりや。”
  (山田風太郎『戦中派不戦日記』講談社文庫より)