あらすじも知らず、何の予備知識も持たないままに、韓国ドラマ 『チュモン』 を壮大な歴史ファンタジーとして50話以上も観続けてきたわけだが、チュモンが何者であったかを知ったときには、それはもう唐突なことで(まだ唐の国など無い時代の話だけれどもな)、大変な衝撃と感動を受けた。ドラマはまだ暫く続くわけだが、これは幸福な鑑賞方法だったのに違いない。

問題の回を見終わった後に、自宅の書棚に『物語 韓国史』(中公新書) があったことを思い出して、慌てて引っ張り出してきてパラパラめくってみたら、確かにチュモン朱蒙)についての長い記述がある。チュモンばかりか、オイ(烏伊)、マリ(摩離)、ヒョッポ(陜父)まで出てくるではないか。あの3人が……まあ、いいか。ついでにソソノ(召西奴)も、ヨンタバル(延陀勃)も、テソ(帯素)も、ユファ(柳花)も、クムワ(金蛙)もみんな載っている。知らなかっただけのこととはいえ、ここには大変な驚きがある。

この偶然にも我が家にあった 『物語 韓国史』は、過去の自分にどういうフラグが立っていたものか、よくあるパタンで本屋で衝動買いしたまま放置してあったものに間違いない(こういうのは ”買い置き” というのだろうか)。購入しておきながら読む気がしないまま数年を経ているわけだが、そういう次第でこの数日で一息に読み進めてしまった。いまは妻が熱心に読んでいる。知人に『チュモン』を観た人があれば、この『物語 韓国史』も薦めてみることにする。

それにしても書棚にはまだたくさんの ”買い置き” がある。読まないなら最初から買わなければ良いのだが、書店にあって何となくでも惹かれて買った本というのは、この様にいずれ必ずどこかで作動するはずなのである。だからこそ買わずにはおけないし、将来も見据えて手元に置くいわば子飼いの本たちならば捨てることなど到底考えられない。妻にもよく念を押しておいた。

積読だけでなく、近ごろは ”並行読み” にも拍車がかかったようだ。もともと移り気な性格なので3冊程度の並行読みを常習にしていたのだが、このところは10冊以上の書籍を時を替え所を替え取替え引替えしながらも平気で読み続けられている。人間が散漫になってきたことの顕れかも知れない。「何冊読んだか」ということなどはどうでも良いことなのだが、やはり作業効率と集中力には深い関係があるものに違いなく、なんとなく昨年の読書量は例年より少なかったような気がする。

並行して読む作品は常に多様で、読書の気分転換を読書で済ませようとしているのだから当然なのだが、地域も時代も関係分野も作品形式も自然に分散していく。ただし時間配分には注意が必要で、著者の生きた時代が新しい作品ほど時間の配分を増やしてより短期間で読み終えるように意識している。反対に古典など成立年代の古いものは、新しい著作の割り込みを何度も許しながら、時間をかけて細々と読み続ける。たぶんそれで良いのだと思う。ついでに言えば、少しずつでも読む気になれる文章だからこそ古典として生き残り得たのではないかとさえ思う……って、やっぱりそればかりでもないのだろうな。とにかく、並行読みの冊数が増えた原因は、古典の割合が増えたことにもありそうだ。