少し前に 『千の風になって』 という歌が流行ったが、自分も死んだら魂になって、世界中を飽きるまで飛び回ってみたいとときどき思う。旅費の心配も要らないし、危ない場所も平気だし、時間はいくらでもあるから、イベントの一部始終を見物できるし、いろいろ楽しそうではある。ただ、自ら関与できないことへの絶望のようなものは感じるかも知れない。あるいはメフィストフェレスとかいうやつも、そんな淋しい存在なのかも知れない。

三島由紀夫は 『金閣寺』 のなかで、主人公の学僧が父の亡骸を見ている様子を描写しながら、「見る」 ことが生ける者の権利の証明であるというようなことを述べている。肉体改造を重ねたり、割腹自殺して果てるなど、何ごとも行動で示そうとする印象の強い三島だが、現実であろうが空想であろうが目撃し証言するのが作家の宿命であることを考えあわせれば、遺作となる 『豊饒の海』 シリーズの全編にわたって登場する本多繁邦の役割がまさしく 「見る」 ことで貫かれていたように、彼はずっと 「見る」 だけを貫く生き方を模索し続けていたのではないかと思う。

金閣寺』 の主人公の学僧は、夏菊をおとなう蜂の目を借りることで、図らずも美の象徴である 「金閣」 の視座を得る。そのことは、金閣寺がいつか学僧の亡骸を見ることになるであろうことも暗示したに違いない。金閣寺はこれまでに無数の亡骸を見送りながら生き続けてきたが、しかし果たして本当に金閣寺は 「見る」 側にあるものなのだろうか。金閣に対してはその厳密な一回性 (すごい言いまわしだ) を消滅させることができるが、人が死んでも生命の一回性 (すごい言いまわしだ) が滅ぼされたことにはならない。そのことを再び人類に思い出させるために金閣を焼いてみせよう、という気分が湧いてきたような感じである。アンガージュマンとは、あるいはこういう気分を指して言うのかも知れない。『金閣寺』 の終盤で、世界を変貌させるものは認識である、さもなくば狂気か死に任せるしかない、と冷たく笑う友人の柏木に対して、世界を変貌させるものは行為なのだと、後に金閣を焼くつもりの主人公はきっぱり言ってのける。

1950年に実際に起きた金閣寺放火事件がきっかけだったかどうかは判らないが、三島由紀夫はある時期から社会や時代に対するいたたまれなさを感じ始めていたのではないかと思う。世界を変貌させるものは行為なのだと学僧には言わせておきながら、自らは狂気と死の両方を採択してどこかへ消えてしまった。自殺の原因について、「老い」への恐怖だとか、英雄的自己犠牲だとか、切腹へのフェティシズムだとか、残された我々はいろいろ推し量ってみるわけだが、それらはいずれも適当でないように思う。