振り回わされる大刀が風を切ってうなり、人の頭に振り下ろされて血しぶきがざっと雨戸に貼りつく。異常気象ならばこれ以上眠る気になれず起床。新聞をとりに玄関を開けてみれば鉄砲水というより機銃掃射水。傘を突き出すと先のほうだけ水圧で削ぎ取られてしまう。郵便受けから朝刊を救出するまでに4本の傘を無駄にした。これはもう非常事態と思われるので、久しぶりに長靴を履いて行くことにする。しかもズボンの裾は長靴の中に収めるモードでなければならぬ。さらにいつ雑巾にしても良いタオルと、丸めたビニール袋をリュックに詰め、職場で履く革靴もリュックに詰め、ラジオと笛もリュックに詰め、我が家に千本ある雨傘のうち、とくに屈強な業物を3本選んでリュックの蓋に挟む。そのうちの1本はかの石川五右衛門南禅寺山門からひらり飛び降りたときに落下傘代わりに開いたという名物で、主要な骨組みにはオリハルコンが使われている。そのとき五右衛門の足には3人の捕手がしがみついたまま、傘は大の男4人を引き揚げつつ壊れもせずに春風を孕んで半時ほども宙を舞い続けたらしいが、まあ、これは余談。とにかくいつもより時間をかけ万端準備を整えて、さらにいざというときの集合場所を妻と示し合わせ、勢い雨降る外界に踊り出てみれば、どうしたことか雨足はすっかり弱まっている。どうなっておるのか。背後の妻は目を閉じたまま扉を閉じて鍵までかけて主人を見送る。うーむ。天気予報はどうも大袈裟に言い過ぎる。妄想が軽く現実を飛び越してしまったではないか。傘を差しながら歩きつつ、ふとコンビニの窓ガラスにゴム長を履いたスーツ姿の映るを見れば、それは間違いなく午後からは娘の結婚式に出席しなければならぬがどうしても気になることがあるからと言い捨てて独りビニールハウスを訪れた農家の父の姿である。まあ、いいか。とにかくそんな格好をしている人は自分の周りにも先祖にも一人もおらず、駅についてみれば予想に反してダイヤの乱れは塵ほどもなく、行き交う人々の表情にも動揺の色の欠片もなく、自分もまた傘を閉じることばかりは彼らと同じでありながら、しかし、さらに背負っていたリュックを膝に下ろし、中からタオルを取り出してスーツに着いた水滴を優しく拭き取り、そのタオルで長靴の周囲も拭いて、そっとビニール袋にくるんでリュックに戻し、そして長靴からはズボンの裾を引き摺り出して長靴にかぶせる。誰も改札口でそんなことをしている人はいない。なぜなら雨は小降りだからである。出社後、通常の革靴に履き替えた後も、長靴を履いて来たことを少なくとも三十人の職場仲間に告白して回る。