すし屋で買ったバッテラ鮨を提げて、妻が見つけたビオトープのあるという公園まで行ってみる。着いてみれば、綺麗に整地されて石畳も管理事務所もベンチも新しい。しかし新しい公園なので周囲に植えた樹木もまだ細くこの季節は淋し気である。アーバンコートの歩道を歩きながら広さを確かめてみたり、何よりもバッテラ鮨が食べたくて適当なベンチを探してみたり。人工の池の上に渡された桟橋の中央あたりで、魚がいるのよ、と妻が教えてくれるので水面を覗き込んでみるが、コンクリート打ちっ放しの冷たい水底が見えるだけである。「いないようであるが」 と訊ね返すと、お魚いるよ、となお強く頷くので、ちょっと考えてから 「心の中に?」 と慎重に尋ね直してみたが、そんな浅いところにはいないと笑いながら桟橋の影あたりを指差す。覗き込んでみれば灰色のクレヨンみたいなのがうようよしておる。小さいのと少し大きめなのと誤解を畏れずに言ってしまえば雑魚なのであるが、大小寄り集まって右を向いたり左を見たり親分子分の水盃。大きめの魚は数が少なく、1匹が動けばその後ろを沢山の小魚がついて回る。だから大きいのは威張って見える(イバッテラ鮨早く食べたい)。大きいのが右から左へ泳ぎだせば、白い巨塔の一場面のようでもある。大きいのはいつまでも大きく、小さいのはいつまでもそれなりに小さいのだろうから、この体制は永遠に続くかのように思われるが、ふとまた別の日陰に目をやると、そこに大きめの魚ばかりが10匹ほど集まって静かにエラを潜めているのが見えた。潮来衆のように高みから笑っているかのようである。こんなところにもエリート意識のようなものが潜んでいたかと深く頷いてみたり。

日当たりの良いベンチに腰かけてバッテラ鮨を食べる。そこでまた、冬枯れの空など眺めながら、”木はなぜ枯れるのか” という例の問題について話し込む。樹木は季節につれて小さな死と再生を毎年繰り返しているわけだが、しかもそうしながら、少しずつ幹を太くし、枝を増やしていくのである。なぜ一気に大成長に向かって邁進していかないのか。蟻や人間がそうするように、冬が来ることを学び、寒冷条件に適応しつつ、冬の間もじゃんじゃん葉を繁らせて、ずんずん伸びていけば良さそうなのに、何故わざわざ年ごとに死と再生の儀式を受け容れているのか。木はなぜ枯れるのかという自分の疑問の中心はその点にある。この話になると、”一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん死なば多くの実を結ぶべし” という、ヨハネ福音書第12章24節が、決まって思い出されてくるわけだが、しかしこの件はまた少し違ったことのようにも思われる。

ところで、そうして春に芽吹き冬に枯れながら何百年も生き長らえた巨木でさえいずれは朽ちるようでもある。植物がこの地表に初めて発生したのがどのくらい過去のことかは知らないが、例えば何百万年も成長し続けている大木の存在などは聞いたことがない。そうなるとつまり、それほどに 「生き続ける」 ということは難しいことなのだということなのかも知れない。だから、桜が毎年咲いたり散ったり繁ったり枯れたりしているのは、これは何ものかの何ものかに対する必死の抵抗のドキュメンタリーなのであって、本当は冬の間もじゃんじゃん成長したいとずっと思ってきているのだが、どうしてもその野望は毎年阻まれてしまっている、いつかは見返してやる、いまもそういう攻防が続いている状態なのかも知れない。

あるいは逆に、この小さな死と再生のメカニズムは、樹木が長年の研鑽の末に勝ち取った神秘なのかも知れない。考えてみれば定期的に使い旧した花や葉を捨ててまた新しい若さを取り戻すというメカニズムは、老いるだけの人類から見れば少し羨ましくも思われる。再生する樹木があるからこそ、世界はいつまでも美しいままなのかも知れない。

あるいはまた、樹木は単に太陽の光に反応しているだけなのかも知れない。いや樹木だけでなく、この孤独な地球の表面に転がっているすべての物体は、播き拡げた砂鉄の一隅に磁石を近づければそこだけ大騒ぎするのと同じように、わずかな地軸の傾きと緩やかな自転と公転とによって七色に変化して映る太陽光線に反応しながら、一生懸命に手を振っているだけなのかも知れない。我々は等しく太陽の鏡なのだという思いつきは、しばらくの間メランコリックに自分の意識をとらえて離さなかった。木はなぜ枯れるのか。太陽が再び遠ざかるからである。枯れ萎れながら深い溜息をついているのである。