勤労感謝とは何の関係もなく母が来宅。昼飯を食べて帰る。食べたら気が済んだようで帰るというので途中まで送る。駅前が酉ノ市で賑わう故か、祝日なのに珍しく貸本屋が開いているので、つい 『花とみつばち』 の続きなど数冊借りる。次第に ”あとがきクン” を読むのが楽しみになってきている。

コミックを抱えて帰る途中、床屋の前で理容師D(女性)と目があって惹き込まれてしまう。そのまま担当してくれた理容師Dは、じつは妻の小中学時代の先輩だったらしい。これまでに何度も彼女に頭部を預けてきたが、今日初めてそんな話を聞かされて髪の毛が全部抜けてしまいそうである。なにかこう、夏目漱石夢十夜』 の一編でも始まりそうな気がする。俄かに動悸が昂ぶるのをどうすることもできない。体が小さいうえに、大人になっても小さい子供とばかり遊んでいるために未だに小学生にしか見えない妻は、実際に現役の小学生時代には近所で相当ブイブイ言わせていたらしく、彼女の生まれ育った土地には数々の伝説が残されている。痒いところはありませんか、とか尋ねられながら、そういう妻の伝説のひとつでも聞かされようなら、坊主にされても黙ってシャンプー代を支払わねば帰れないような気さえしてくる。

しかし事実は小説より奇なりというが、人間の妄想には限界があるというだけのことで、全ての事実が奇妙なわけではない。人生はドラマチックなのかも知れないが、劇的でない時間のほうが遥かに長く横たわっているわけで、荒野のガンマンが床屋で喉に剃刀を当てさせる瞬間に撃鉄を起こすようなことをしなくても、平穏かつ安全に散髪をやり過ごすことができるのが現代の平和な市民社会なのである。そういうわけで、理容師Dは過去の事象には一切触れずに、現在の母校の事情などを教えてくれた。妻への良い土産話とコミック数冊を抱えて帰ってくる。